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ラノベには教条性がない? 子どもが子どものまま勝ち続けてる? 

三村氏のお考えを知人の方が記されていて、ちょっとびっくりしたのだけど。

三村氏の指摘を紹介する形でツイートしてくださった知人の方、ありがとうございます。そして3年近く前のツイートについて書くおれ、遅えよ!
 
「教条性がない」「子どもが子どものまま大人に勝ち続ける。代償としてのイノセンスがない」って三村氏の指摘のところで、え~ってなっちゃったんですよね。

元々、教条ってのは 

教会が公認した教義。また、その教義の箇条。ドグマ。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/教条/

って意味なんですよね。

教会が」ってのがポイントです。これ、キリスト教の教会が、って意味ですから。

日本は多神教の国であって、キリスト教の国、一神教の国ではないんです。キリスト教世界で言う教条なんか我が国にはないんです。

キリスト教の教会って、とにかく異端撲滅に躍起になるわけです。これが正統な教義、これが教条だってことに、躍起になるわけです。で、違う教義を唱えるやつを撲滅しまくるわけです。教会みたいな組織が「正式な正典はこれ! それ以外は偽典! 偽典を支持したら、おまえ異端!」ってやるんですよ。教条のために虐殺までしちゃうわけです。アルビジョワ十字軍なんかひどかったんだから。大修道院長が「抹殺しろ~っ」みたいな命令を発してるし。おまえ、人間かよっていう。

でも、日本はそんな世界じゃない。仏教の世界って、異端を撲滅する世界じゃないんですよ。中村元氏が指摘していることだけど、仏教の世界では「仏の教えはよく説かれたものである」なわけです。ひっくり返して「よく説かれたものは仏の教えである」ってなっちゃうんですね。今の人からすると「え~っ」なんだけど、この理屈で、キリスト教の価値観で見ると偽典に該当するものがどんどん仏典として取り込まれていくんです。仏陀死亡後に、他人が書いた偽典も「よく説かれているからOK~っ!」ってことで仏典に入っちゃったりするわけです。偽典と正典を分けて、偽典を奉ずる連中ばんばんぶっ潰していったキリスト教とは全然違うわけです。

仏教の世界って、教義的にはそういう超ゆるゆるな世界なんです。で、日本もそうなんですよね。超ゆるゆるです。だから、そもそもドグマなんてものはこの国にはないんですよ。教会が公認した教義みたいなものに該当するものが、この国にはないわけです。ドグマを求めるドグマ性なんてものも、日本にはないわけです。ないからこれだけ寛容で、豊かなエンタメ世界ができあがるんだけど。

だから、ぼくからすると、

「日本のライトノベルには教条性がない」「子どもが子どものまま大人に勝ち続ける。代償としてのイノセンスの喪失がない(誠意調整の拒絶とも言える)」

この三村氏の指摘は、キリスト教的世界観に毒されたものの見方に見えちゃうんです。だいたい、エンタメが教条的であることが必要なのかっていうね。教条性って、教条があることを意味すると思うんだけど、エンタメが教条を持つ必要があるのかっていう。必要じゃないじゃん。三村さん、教条の意味を完全に別のものと間違えてんじゃないかな。違う言葉を教条性って言っちゃってんじゃないかな。教条性って、「これが絶対正しいんだ!」って権威的組織が認めた教義があることだぜ? そんなものがエンタメになきゃいけないものなの? 

NOです。エンタメはドグマの宣伝道具じゃないんだから。ドグマを含まなきゃいけないものでもない。宗教じゃないんだから。「~主義」みたいに教条を持つ主義主張でもないんだから。エンタメなんだから。なんで娯楽作品に教条が必要なの? 三村氏は何を勘違いしてんの? エンタメだってこと、わかってんの? エンタメを文学とか道徳の教科書と勘違いしてんじゃねえのかよ、勘違いもいい加減にしろよって思う。

教条性以外の部分、「子どもが子どものまま勝ち続ける」ってところも、個人的にはクエスチョンです。あえて茶化した言い方をするけど、ジジイがジジイのまま勝ち続けるのが『水戸黄門』じゃないのか(笑)。アンパンのくせに勝ち続けるアンパンマンはどうなるんだ?(笑)

冗談はさておき、そもそも今の若者文化を批判する時に、大人への成長を評価軸(基準)にして「大人への成長を促していない」みたいに批判するのは、昔からやってきたことなんです。なんらかの教育性がなきゃいけないみたいなね。

けど、待ってくれっていうね。エンタメは道徳の教科書かっていう。主義主張をぶちまける演壇かっていう。エンタメはエンタメですよ。読者が憂さ晴らしをするものです。それがメインです。エンターテインメントは楽しませるって意味なんだから。大人への成長を促すとか教え導くなんて意味はない。ビルドゥングスロマンとか無知なる子供を教え導くなんてのは、近代(モダン)が流行ってた前世紀とか前々世紀にやってたものなんだから。

でも、テーマがなきゃいけない? 読者に訴えるものを作家が持ってなきゃいけない? テーマとかメッセージは、教導とは違います。「心に訴える」と「教え導く」はイコールじゃないから。

今のラノベはね、今の自分を主人公に投影して、主人公が活躍する姿にどきどきワクワクするものなんです。中高生とか、中高生的マインドの大人をなんだと思ってんだか。

今の自分は活躍できる人間じゃないかもしれない。でも、活躍したい、自己実現したい、そして「おれすげえっ!」って思いたい。

それが中高生です。中高生マインドの持ち主です。

活躍して「おれすげえ!」って感じたい。それでまわりから「あなたすげえ!」って言われたい。

それが中高生であり、中高生的マインドの大人です。そしてこの願いを叶えるべく最適な形で物語を生み出し量産しているのがラノベです。ラノベが市場的に大きな存在感を放っているのは、

活躍して「おれすげえ!」って感じたい。それでまわりから「あなたすげえ!」って言われたい。

って中高生や中高生的マインドの大人が多いからなんだと思うのですが、それはひっくり返すと、

現実社会では、活躍して「おれすげえ!」って感じることができない。まわりから「あなたすげえ!」って言われることもない。その見込みはまるでない。

ってことです。だからなろう系が流行っちゃうわけだし。

ともあれ、そういう状況の中で、少年向けエンタメ作品の中に教条性なんか入れるかっていうね。「これが絶対正しいんだ!」っていう教条なんか盛り込むかっていうね。今は近代じゃないんだし、ビルドゥングスロマンなんかもやらねえよっていうね。何回も言うけど、エンタメなんだから。三村氏はほんと、対象がエンタメだってこと、まったくわかってない。

「子どもが子どものまま大人に勝ち続ける」。勝ち続けて何が悪いんだよって。今の自分が違うから、せめてフィクション(虚構)の中で夢見て、自分と重ねて、あ~、面白かったって一息ついてんじゃん。そのどこが悪いんだよっていうね。少女向けの魔法ものじゃないんだから、別に大人に変身しなくたっていいんだよ。代償としてのイノセンスの喪失がないって、なんで人が夢見たい時に、人を削る現実をばんばんぶち込む必要があるんだよ。教条性がないという指摘が批判ではなく、ただ事実の指摘なら「日本だから、そりゃそうだろ」って思うけど、教条性がないが批判ならば断固拒絶するね。もし批判ならば、正直、何を高所からわけわからんこと言ってんだかって思う。もし教条性がないと批判していたとしたら、めっちゃ危険です。そういう批判者こそが文化に対して教条的になってろくでもないことをするんです。

少し話がずれるんだけど、サブカルチャーって、社会の現実を教え導くものではないんです。つまり、少年少女を教導するものではないんです。もしそう考えている人がいるとしたら、その人は啓蒙時代と近代のイデオロギーに毒されてます。

ラノベには教導性(教導的性質)がなくて当たり前なんです。以前noteでラノベの定義について書いた時にも記したけど、

教導的というのは、「大人の作家が少年少女を教導する」という性質のことね。その意味でぼくは教導的という言葉を使っています。

世間を知らず無知な少年少女を、世間を知っている大人(の作家)が教導する。現実はこうなんだよ、世の中はこうなんだよ。そう教導する。そういう性質を「教導的性質」というんです。

無知なる少年少女という小羊を、我ら大人(の作家)という聖職者が世間の実情や大人世界の世知辛さなどを伝えて教え導いてしんぜよう。よいか、小羊よ、これが大人の世界というものじゃ。これが現実じゃ。わかったら、学習して大人になっていくのじゃ。

これが教導的性質で、いかにも20世紀的というか、近代的です。近代には、まだ啓蒙の名残があるからね。啓蒙の匂いがぷんぷんするでしょ?

実際、まだ近代(モダン)が壊れていなかった20世紀初頭の少年少女向けの小説には、教導的性質って色濃くあったんです。先のnoteにも書いたけどね、20世紀初頭の少年向け小説の特徴って、

・小学生~中学生向けだった
・教導的性格が強かった
・物語の架空性はライトノベルほど高くはなかった
・キャラクターは立っていなかったし、造形はアニメ・漫画ベースではなかった

こうだったんです。で、さらに時代が進んで20世紀半ばをすぎても、まだ教導的性質は残ってた。20世紀中葉のジュブナイルの特徴って、

・小学生~高校生向けだった?
・教導的性格が強かった
・物語の架空性はそこそこあった
・キャラクターは立っていなかったし、造形はアニメ・漫画ベースではなかった

で、90年を境にこの性格が変わるわけです。

・表紙は漫画&アニメ系のイラスト
・メイン読者は中高生(思春期の少年)かオタク(思春期的ハートをずっと持ち続ける男性)
・キャラクターが立っていて、キャラクターの造形がアニメ&漫画ベース
・物語設定の架空性が高いものが非常に多い
・青少年への教導的性格を持たない

教導的性質が消えるんです。ちなみに古典的な少女小説からコバルト小説にシフトする時にも、教導的性質が抜けています。

で、今のラノベはこういう定義になってます。

・表紙は漫画&アニメ系のイラスト
・キャラクターが立っていて、キャラクターの造形がアニメ&漫画ベース(それゆえイラストはアニメ&漫画系と相性がいい)
・メイン読者は中高生(思春期の少年)かオタク(思春期的ハートをずっと持ち続ける男性)→それゆえ彼らにアピールするためにイラストはアニメ&漫画系
・物語設定の架空性が高いものが非常に多い
・青少年への教導的性格を持たない

やっぱり教導的性格はないんです。ラノベに教導性(教導的性質)がなくて当たり前なわけです。教導性を抜いたことによって成立したのがラノベなんだから。ラノベに対して「教導性がない」と指摘するのは、ノンシュガー飲料に対して「砂糖がない!」と言ってるのと同じです。ノンシュガーだからって。ノン教導性がラノベなんです。

ところが、「子どもが子どものまま大人に勝ち続ける。代償としてのイノセンスの喪失がない(誠意調整の拒絶とも言える)」。

これね、ラノベに教導性を要求しちゃってるでしょ? 正直、何言ってんの? って感じです。世界が期待からどんどん遮断されている社会の中で、人が夢見たくてラノベを手に取ってんのに、何言ってんだかって感じです。時代錯誤の啓蒙主義の価値観で21世紀の作品を見ないでくれよって思います。マルクス主義じゃないんだから。共産主義の独裁国家の中の作品じゃないんだから。教条性なんかいらねえよ。

だいたいね、物語って、みんな同じ解像度で書くわけじゃないんだから。社会の解像度、組織の解像度、人間(人物)の解像度。物語によって全部違います。『水戸黄門』の人物・組織の解像度と、本格的な時代劇の人物・組織の解像度は違います。『アンパンマン』の人物の解像度と、大人向けの現代を舞台にしたシリアスな小説の人物の解像度も違います。作品によって、解像度が低い、解像度が高いというのがあります。解像度が低い部分や高い部分が違います。ラノベだって同じです。ラノベが他のシリアスな小説と同じ人間の解像度で物語を書いてるかっつうの。もし自分がよしとする50代向けの作品の高い人物解像度をベースにして、少年少女向けの(低めの)人物解像度でつくられた作品を断じているとしたら、それはただのオッサンマウントです。

自分がただマウントしてるだけってこと、三村氏は気づいて猛省してほしいと思うね。


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