本格ファンタジーが、ラノベやなろう系小説に殺されている?
本格ファンタジーが、ラノベやなろう系小説に殺されている――。
そういう言説でSNSが沸いた。
ハッキリと言っておくが、あるジャンルが別のジャンルを殺すことはない。
エンタメ作品は、すべて誰かの心の受け皿だ。つまり、人の不安や苦悩や願望を受け止めてくれる心の受け皿だ。
心の受け皿のうち、最も大きなものは、社会が求める心の受け皿となる。心の受け皿は、時代や社会と結びついている。
時代も社会も不変ではない。必ず変わる。時代が変わって社会で求められる心の受け皿の姿が変われば、かつて大きな受け皿だったものは縮小・衰退し、別のものが大きな受け皿として浮上する。
つまり、まず時代と社会の変化があり、それに伴う「最も多く求められる心の受け皿」の変化があるのだ。それに追随して、流行のジャンルが変わる。
もし本格ファンタジーというジャンルが成立していたらという話になるが、今の時代でいえば、衰退したのが本格ファンタジーであり、新しく大きな受け皿となったものがラノベやなろう系小説だ(詳しくは言わないけど、仮想戦記ものもそうです)。
本格ファンタジーの没落(?)も、ラノベやなろう系小説の隆盛も、ともに時代や社会の変化によるもの、社会の変化に伴う「心の受け皿」の変化に伴うものだ。
ラノベやなろう系小説が、本格ファンタジーを殺したなんてことはありえない。あるジャンルが別のジャンルを殺したなんてことはありえない。正しくはこうである。
時代が変化した。その変化により、本格ファンタジーを大きな心の受け皿としていた社会が、揺らいだ。本格ファンタジーを心の受け皿として求める人たちが減少した。代わりに、新しい心の受け皿が社会で求められるようになった。その新しい心の受け皿を実現したのが、ゼロ年代のラノベであり、2010年代半ば以降のなろう系ファンタジーだった。
この順番をひっくり返し、因果関係もひっくり返して「ラノベやなろう系小説が、本格ファンタジーを殺している」というのは大間違いである。
時代の変化を見てみよう。
本格ファンタジーの代表例たる『指輪物語』が書かれたのは、1937~1949年。
まだぎりぎりモダン(近代)が残っている時代、まだ世界が断片化していない時代、大きな物語が存在していた時代につくられたものだ。
本格ファンタジーは、「大きな物語」と「統一的世界」を物語レベルで表したものなのだと思う。
大きな物語とは「これから世の中はこうなっていきますよ」「社会はこうなっていきますよ」という大きな展望のこと。その展望が社会に広く共有されている場合、その展望は大きな物語となる。
統一的世界とは、ある世界を一つの体系にまとめあげた場合、その世界は統一的世界となる。一つの体系の下に、世界はばらばらの状態から統一された世界となる。統一的世界では「全体」というものがイメージされる。90年になるまでは、「国民的~」というものがあった。国民的歌手。国民的な力士。国民的な野球選手。国民的歌謡。「国民的~」という存在があった。これも近代(モダン)の特徴である。ちなみに日本では、1950年本は全集本の時代だった。全集本が飛ぶように売れた。全集とは一つの体系である。モダンと呼ばれた時代が「大きな物語」と「統一的世界」の時代であったがゆえに、全集本という体系の世界が売れたのだ。だが、1970年代には全集本は衰退していくことになる。
話を元に戻す。
大きな物語と統一的世界があったモダン(近代)の時代。「国民的~」をイメージできたモダン(近代)の時代。すなわち90年以前の日本では、まだ大きな物語や統一的世界があった。それを反映する形で、本格ファンタジーも存在感を放っていた。
だが、90年代から時代と社会が明確に変わっていく。日本では、モダンからポストモダンへのシフトが如実になっていく。
世界そのものが断片化して無数のばらばらの破片となったポストモダンの時代。統一的世界が壊れて、体系や「国民的な~」をイメージできなくなったたポストモダンの時代。大きな物語が消えて、小さな個人個人の物語だけになったポストモダンの時代。すなわち、90年代以降の日本。大きな物語も統一的世界も消えた世界(90年代以降の日本)では、大きな物語と統一的世界の象徴たる本格ファンタジーは、到底主流とはなりえない。
ニーズは決してゼロではないし、ぼくも本格ファンタジーは好きだし、『指輪物語』には大いに感銘を受けたけど、今の時代の主流にはならないよなって思う。
時代が変われば、大多数的に求められる心の受け皿は変わる。かつて受け皿として機能していたものは小さな皿となる。新しい受け皿として時代にフィットしたものが大きな皿となる。
かつて受け皿として機能していたものが本格ファンタジーであり、新しい受け皿として時代にフィットしてとても大きな受け皿に成長したものが、ゼロ年代からのラノベであり、10年代半ば以降のなろう系小説だった。
時代と社会の変化により、大多数的に求められる心の受け皿が変化し、それによって元気なジャンルが元気を失って別のジャンルが元気になる。そういうことは、過去に商業エロゲーでも起きている。
商業エロゲーがピークオフして縮小し、代わりにラノベが隆盛した時にも、ラノベがエロゲーを殺した、ラノベがエロゲーの客を奪ったみたいなことが言われた。
大間違いである。ラノベが商業エロゲーを殺したわけではない。第一、あるジャンルが別のジャンルを殺すわけではない。あるジャンルが衰退するのは、いつだって時代と社会の変化――それに伴う心の受け皿の変化なのだ。
商業エロゲーで起きたことはこうである。
95年以降2003年まで、当時の若者社会の最も大きな心の受け皿となったのが、泣きゲーはじめとする「商業エロゲー」
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2004年、格差社会の到来により時代も社会も変化
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時代と社会の変化により、社会が求める最も大きなの受け皿が変化
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変化した受け皿を一番よい形で提供できたのがラノベだったから、ラノベにお客さんが移動
本格ファンタジーと「ラノベやなろう系小説」との関係も同じだ。ラノベやなろう小説が本格ファンタジーを殺したわけではない。
本格ファンタジーが心の受け皿として一定数求める時代
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日本社会でのポストモダンへのシフトが顕著に
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本格ファンタジーとは違う心の受け皿を求める時代へと変化
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新しい心の受け皿を最もよい形で提供したのがラノベであり、なろう小説
本格ファンタジーを殺しているのは、ラノベやなろう系小説ではない。衰退の原因は、時代変化&市場変化(心の受け皿の変化)なのだ。。
でも、表面しか見ない人は、気に入らない変化は自分の気に入らないものが起こした変化だと間違って思い込む。
曰く、ラノベがぁ……なろう系小説がぁ……。
世界が断片化し大きな物語が終焉していく今の時代に、本格ファンタジー(大きな物語と統一的世界の代表例)が人気の主流に……とはならない。
「ラノベやなろう系小説が本格ファンタジーを殺した」
というのが、
「おれの好きな本格ファンタジーが減った、うわぁぁん!」
という嘆きなら全力でうなずけるが、事実の指摘としては事実誤認であって、ただの世迷い言にしかならない。
ところで。
少し脱線するが、なろう系小説と本格ファンタジーを分けるものは何だろう? ぼくは、インフラストラクチャーだと思っている。。
インフラストラクチャーとは、人が社会生活を行なう上での基盤となるもの。電気、水道、道路、都市の設備、交通網、乗り物……など、生活基盤の施設や設備のこと。略してインフラという。
なろう系ファンタジーと本格ファンタジー(≒本格系ファンタジー)とは、インフラストラクチャーが違う。
JRPG的なインフラでつくられたものがなろう系小説。冒険者ギルドがあったり、換金システムがあったり。JRPG的なインフラでつくられたものが、なろう系小説。ナーロッパ世界。
リアルの中近世ヨーロッパのインフラでつくられたものが、本格系ファンタジーと本格ファンタジーの世界。
JRPG的なインフラでつくられたなろう系小説では、インフラ設定に対してあまりリソースをぶち込まなくていい。JRPGからインフラのアイデアやインフラ設定そのものを借用する形になるので、インフラに対してコストを掛けなくて済む。世界のインフラ設定に関してはローコストである。下手をするとノーコストになる。
杜撰?
そういう視点で眺めるのは短絡だ。蔑視の視線で眺めてはならない。世界のインフラ設定をローコストで済ませられることによって、「多くの素人の方がファンタジー創作という垣根の高い世界に飛び込める」という状況が生まれている。ファンタジー世界でインフラ設定するのは、かなりハイコストなのだ。だから、インフラ設定というハイコストの部分がローコストになることで、多くの素人がつくれる状況が生まれているのである。そして、エンタメの世界でもスポーツの世界でも、プレイヤーが多いほどその世界は豊かになり、頂点の人材もすばらしくなる。漫画はその最たる例である。
さて。一方、本格系ファンタジーや本格ファンタジーでは、リアル中近世ヨーロッパがインフラのベースとなっている。
本格系ファンタジーや本格ファンタジーの世界を構築するためには、相当量のリアル中近世ヨーロッパの知識が必要で、相当量の専門書の読書が不可欠になる。高校の世界史レベルでは到底太刀打ちできない。数十冊レベルの専門書の知識が必要になる。
つまり、コスト的にはハイコスト。
具体的にはリアル中世都市の図面とかね。道路のこと書いた本とかね。馬車について書いた本とかね。はたまた中世前期のゲルマン民族の法典とかね。いっぱい専門書を読んでないと、本格系ファンタジーも本格ファンタジーもつくれない。しかも、専門書は高い。読むのに時間が掛かる。金銭的にも時間的にも、本格系ファンタジーや本格ファンタジーをつくるのって、かなりハイコストなのだ。
このハイコストが世界設定のほぼすべてで行なわれて体系のような体裁をなしているものが、本格ファンタジーと考えていいと思う。『指輪物語』がその代表例だ。あ、言語体系とかも考えてるからね。おれはそこまでやらん。
ともあれ、世界設定のコスト別に整理すると、こうなる。
なろう系小説……ローコスト
本格系ファンタジー……ハイコスト
本格ファンタジー……超ハイコスト
上記について、「すべてのなろう系小説が……」というわけではない。ぼくは全体的な傾向について言っている。
ローコストの世界には、ローコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。
ハイコストの世界には、ハイコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。
超ハイコストの世界には、超ハイコストゆえの面白さとメリットとデメリットがある。
コスト別にファンタジーの世界にはメリットとデメリットがあり、そのコストゆえの面白さがある。そしてどのコストのファンタジー世界が好みかは、人の好みや感性や価値観によって違う。
自分の好みや価値観を絶対的基準として、自分の価値観に合わないコストの作品世界を悪しく言うのは、個人の自由ではあるけれど、ぼく個人はあまり感心しない。
感心しないのは、ぼくのポルノ作家としての経験が大きい。
ポルノの世界では、他人の嗜好をけなさない。
巨乳フェチの作り手が貧乳フェチの作品をけなすことはないし、貧乳フェチの作り手が巨乳フェチの作品をけなすことはない。
ポルノの世界では、性的嗜好の多様性はデフォルトの世界なのだ。多様性を受け入れて非難しないことがデフォルトの世界なのだ。
巨乳フェチにとって貧乳フェチは、ただ趣味が違うだけ。貧乳フェチにとっての巨乳フェチも同じ。
ただ、自分の趣味ではないだけ。自分の趣味ではないからといって攻撃なんて無粋なことはしない。
自分の基準を絶対化して、自分の価値観に合わないコストの作品を攻撃するのは、ぼくには不寛容&無粋に見える。自分が書いているジャンルに対する情熱がありすぎると、ついつい超攻撃的な言い方とか何かを排斥する言い方とか何かのせいにする言い方にしちゃうんだけどね。知的には、それは感心しないよね。
ンなことを吐かすおまえは何を書いとんねん……ってことで、hj文庫から『高1ですが異世界で城主はじめました』シリーズを書いています。2013年から書いてます。
もうすぐ22巻が出ます。
発売当初は「なろうで連載していた!」と間違われたりしましたが――連載はしてません――なろう発ではなく、書き下ろしです。そして本格系ファンタジーだと思います。毎回条文出てくるし(笑)。そのために中世とか近世のリアル法典調べたりしてるし(笑)。
それから、2009年から『巨乳ファンタジー』(Waffle)という商業エロゲーのシリーズをずっとつづけています。
巨乳ファンタジー3では古代ローマの世界がばりばり味わえます(笑)。
巨乳ファンタジー4では、カトリックと正教会的な違いが味わえます(笑)。
脱線もしてきましたが、凝ってる方のファンタジーをラノベでも書いて、そして商業エロゲーでもつくっている人間としては、そういうことを思うのです。
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