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異世界ファンタジーの定義のずれは、こう整理できる

「『異世界ファンタジー』の定義が変わっている?」というまとめが賑わっている。「異世界ファンタジー」の定義が、今と昔とではずれてきているというのだ。

ファンタジーを議論する時に厄介なのが、ファンタジーの定義である。この定義をあやふやなままにすると、議論はぐちゃぐちゃになって、ディスコミュニケーションのまずいピューレができあがる(笑)

拙著『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』の中で、ぼくはファンタジーについて定義を行っている。

・資本主義成立以前の世界が、メインの背景
・少年や少女が楽しめるように配慮されている

この両方を具えたものが、ファンタジーだとぼくは考えている。かなり長くなるけど、拙著から引用する。

「資本主義成立以前の世界をメインの背景として含む」というのは、「資本主義成立以前の世界」が、メインの舞台になっているということだ。資本主義成立以前の世界とは、具体的には古代世界や中世世界のことだ。古代や中世においては、資本主義は成立していない。剣と魔法や呪術、魔物といったものは、資本主義が成立する以前の要素である。「資本主義成立以前の世界が、メインの背景」とは、そういった要素がメインとなっている、あるいは、古代的な世界や中世的な世界が舞台になっているということだ。ただ、それだけではファンタジーとは言えない。「少年や少女が楽しめるように配慮されていること」が必要である。
 少年や少女が楽しめるように配慮するとは、たとえば主人公を少年や少女に設定して活躍させ、少年や少女の読者が感情移入して楽しめるように配慮することである。歴史上の古代や歴史上の中世を舞台にしていても、少年や少女が楽しめるように配慮されていなければ、歴史小説である。それは50歳以上のオジサンたちが読むものだ。
 少年や少女向けの配慮がある場合、資本主義成立以前の世界が舞台だと自
動的にファンタジーになる。だが、資本主義が成立した19世紀以降は、その
時代を舞台にするだけではファンタジーとは言えなくなる。成立するために
は、資本主義が成立する以前の世界の要素(剣や魔術など)がメインの舞台
設定として含まれることが必要である。

『鏡裕之のゲームシナリオバイブル』

あとで気づいたけど、ここまで長広舌やんなくてよかったね。失敗。

さて。ファンタジーにおいて、異世界へ召還されて活躍する物語、あるいは異世界に転生して活躍する物語は、必ず1つの移動が前提となっている

現代日本⇒異世界

という移動が、冒頭に前提されているのだ。移動は、召還や転生や転位(転移ではない! 転移はフロイトの転移や病気の転移に使われる言葉だ! 主人公が精神分析の患者になってどうする!(笑))によって行われる。

現代日本⇒異世界という移動が前提されているものが「異世界に行って活躍する物語」。前提が含まれていないものが、「異世界の住人(ネイティブ)たちが活躍する物語」である。

さらに、その前提には、もう1つの前提が隠れている。

現代人が主人公ということである。

「異世界の住人(ネイティブ)たちが活躍する物語」の場合、主人公は異世界の住人(ネイティブ)である。

「召還や転生や転位によって異世界に行って活躍する物語」の場合、主人公は非ネイティブの現代人なのだ。

整理する。

●召還や転生や転位によって現代人が異世界で活躍する物語

・現代の日本人(異世界にとっては非ネイティブ)が主人公
・現代日本から異世界への移動が前提

●異世界のネイティブが活躍する物語

・異世界のネイティブが主人公
・現代日本から異世界への移動はなし

かつて両者はともにファンタジーと呼ばれていた。

高千穂遥『異世界の勇士』(1979)は、異世界へ呼び出された高校生が活躍する物語である。つまり、異世界召還ものである。テレビアニメ『聖戦士ダンバイン』(1982)も、武蔵野市在住の18歳の成年が異世界に召還されて戦う物語である。つまり、異世界召還ものである。

ファンタジーは、比較的初めの頃から、「異世界のネイティブが活躍する」スタイルだけでなく、「現代人が異世界へ召還される」スタイルも持っていたのだ。

ぼくの個人的な記憶になるが、80年代当時では、「現代人が異世界に召還されるファンタジー」も、「異世界のネイティブが活躍するファンタジー」も、ともに「ファンタジー」と呼ばれていたように思う。わざわざ「異世界ファンタジー」とは呼ばれていなかったと思う。

異世界ファンタジーという呼び方がいつ始まったかは、ぼくにはわからない。このあたり、是非、ライトノベル研究をされている専門の方に調べていただきたい。

今2016年現在で言う「異世界ファンタジー」については、「現代人が異世界に行って活躍するファンタジー」という定義が圧縮されて「異世界ファンタジー」になったのではないか、と思っている。

「異世界ファンタジー」=「召還や転生や転移によって現代人が異世界に行き、活躍するファンタジー」という意味づけが広まったきっかけは、なろう系小説の隆盛ではないか、とぼくは推測している。「異世界《召喚・転移・転生》ファンタジーライトノベル年表」などを参考にすると、2011年、なろう系サイトで現代人が異世界で活躍するファンタジーが異世界ファンタジーとして人気を拡大し注目を集める中で、この5年間のうちに異世界ファンタジーという言葉がどんどん広まっていったのではないか、という推測だ。

「異世界で現代人が活躍するファンタジー」も、「異世界で異世界のネイティブが活躍するファンタジー」も、ともに異世界が舞台である。

舞台だけを考えるならば、ともに「異世界でのファンタジー」、略すと「異世界ファンタジー」ということになる。

だが、「異世界を舞台にしたファンタジー」=「異世界ファンタジー」と考えるのは、「異世界でネイティブが活躍するファンタジー」を思春期の頃に吸収した人たちだけである。そうでない人たちでは違う。

「異世界で現代人が活躍するファンタジー」をベースにした世代にとっては、異世界ファンタジーと言うためには、

・現代の日本人(異世界にとっては非ネイティブ)が主人公
・現代日本から異世界への移動が前提

の2つの条件が満たされていなければならない。

対して、「異世界でネイティブが活躍するファンタジー」を思春期の頃に吸収した年配の世代の人たちにとっては、

・舞台が異世界であること

が満たされていれば、異世界ファンタジーということになる。

だが、今2016年の人々(すなわち、「異世界で現代人が活躍するファンタジー」に馴れ親しんできて、「異世界でネイティブが活躍するファンタジー」を知らない人たち)の中では、

・舞台が異世界であること

では不十分なのである。そして、そういう人たちにとっては、

・異世界のネイティブが主人公
・現代日本から異世界への移動はなし

という、異世界のネイティブが活躍するファンタジーは、

・現代の日本人(異世界にとっては非ネイティブ)が主人公
・現代日本から異世界への移動が前提


という条件が満たされていないため、「異世界ファンタジーではない」ということになるのである。

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