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小説の三人称視点と主観ショット~四人称視点は妥当か?


藤井貞和氏の『物語論』の中で展開されている「物語の四人称」(小説の四人称ではない)に対して、非常に大きな違和感を覚えた。

さらに池上嘉彦氏の『日本語と日本語論』でも、ある実例で引っ掛かりを覚えた。

ともにヴィジュアルを抜きにして議論されている感じがして、強烈な違和感があった。

この記事の目的は、

1.主観ショットと客観ショットという映像の用語を用いれば、池上嘉彦氏のしっくりこない議論がしっくりくることを示すこと
2.主観ショットと客観ショットという映像の用語を用いて、小説の一人称視点や三人称視点を説明すること
3.四人称(物語人称)が存在的に無意味であることを示すこと
4.そもそも物語の捉え方が違うことを示すこと

である。

まず、池上嘉彦氏の議論から説明したい。著書で紹介されているものとは例文が違うが、日本語学の世界では、英文の実例を引いて次のような議論がなされる。

a) There is a pond in front of me.
b) There is a pond.

日本語に訳すと、

a) ぼくの前に池がある。
b) 池がある。

こんなふうに何の変哲もないものにしかならないが、

a) There is a pond in front of me.

この場合には、池が映った写真を眺めているような、自分が客観視されているような感じがあると。

b) There is a pond.

この場合には、自分がその場にいる、自分の目の前に池が現前している感じがあると。なんだかよくわかるようなわからないような、すっきりするようなしないような説明である。

この議論、ヴィジュアルで考えるとすっきりする。2つの例文の差は一目瞭然である。下の絵を見てほしい。

me(ぼく)のすぐ後ろにカメラがあって、me(ぼく)が少しだけ画面に収まる形で池が映されている。それが、

a) There is a pond in from of me.

話者の目自体がカメラで、目から映した池の姿だけが映し出されている。それが、

b) There is a pond.

自分をなめる形で映像があるのか、あるいは自分の目がカメラとなって映像が映っているのか。その違いなのだ。カメラの視点を導入すれば一発でおしまいである。なぜ、言葉(活字)だけで考えるのだろうとぼくなんかは不思議になる。

では、次に一人称視点や三人称視点の話に移ろう。その前にまず前提として、一人称や二人称、三人称の問題を、視点カメラを導入して考えてみたい。まずは一人称と二人称だけで考えてみよう。話者(自分)が聞き手(相手)と二人だけで対面している時の場合。状況はこうである。

話し手が第一人称、聞き手が第二人称となる。だが、視点カメラは話し手にあるので、話し手は映像には映らない存在、つまりinvisibleとなる。国文学や日本語学の言葉でいうとゼロになるのかもしれないが、話し手はカメラに映ってないだけで、いることはいるので完全なゼロではない。前景化している(手前にいる)というのが正しい。

ともあれ、話し手から見た映像を具体的に示すと、こうなる。

映像の世界では主観ショットと呼ばれる。人間の目を視点カメラとして見た場合に見える映像のことである。それ以外のショット、すなわち第三者的なポジションのカメラから撮ったものは、客観ショットと呼ばれる。客観ショットの実例がこれだ。

男女二人が対面している時、それを第三者的に眺めると上のようになる。だが、当人から見たヴィジュアルはどうなるのだろう?

男性の主観ショットでは、女性しか映像に入らない。女性の主観ショットでは、男性しか入らない。

映画やテレビドラマの場合、主観ショットオンリーで撮影することはない。主観ショットはごく一部で使われて、ほとんどは客観ショットである。客観ショットと主観ショットを併用するということも行われるが、メインは客観ショットである。ちなみに漫画でも、主観ショットはメインにはならない。客観ショットがメインである。演劇は、観客は舞台から離れた位置で観劇するので、常に客観ショットだ。

では、小説の場合はどうか。小説の場合には、主観ショットオンリーの作品がありうるのである。そして、それを我々はよく知っている。最も代表的なものは、一人称の小説である。

一人称視点の小説は、常に一人称(話し手)の見た目から描かれる世界である。一人称視点の小説や物語は、常に主観ショットで描かれたものとして捉えることができる(ちなみに主観ショットは、自分の目から見た映像という特性から、自分の感じたことや考えたことを見せやすい)。

ただ、主観ショットで捉えられた小説がすべて「ぼく」「わたし」などの一人称で語られるものかと言うと、違う。たとえば主観ショットオンリーだけれども、「ぼく」ではなく「彼」や「彼女」で語られた小説もある。それは、三人称一元視点の小説の一つになるのだが、具体例を出そう。まず一人称視点の小説から。

ぼくはいつも、小学校の授業が終わると体育館の裏でアリジゴクを取っていた。みんなと遊ぶのが嫌いだったし、一人になるのが好きだったのだ。一人でアリジゴクの巣を探していると、自分が集団の桎梏から解放されて自由になる気分がした。それは素敵な時間だった。

これを三人称一元視点で書いてみる。

日野遊介はいつも、小学校の授業が終わると体育館の裏でアリジゴクを取っていた。みんなと遊ぶのが嫌いだったし、一人になるのが好きだったのだ。一人でアリジゴクの巣を探していると、自分が集団の桎梏から解放されて自由になる気分がした。それは素敵な時間だった。

機械的に「ぼく」を「日野遊介」という三人称に置き換えるだけで、問題なく成立してしまう。主観ショットを常用する(常に使う)小説にも、一人称視点と三人称一元視点と2つあるのである。

主観ショットだけを使う小説は、語れる範囲や見せる範囲が狭くなるという欠点を持っているが、主観ショットの登場人物の内面は吐露しやすい。それは一人称視点の小説や一部の三人称一元視点の小説のメリットとデメリットでもある。

では、客観ショットだけを使うものの場合どうなのだろう?

上のような客観ショットは、登場人物Aでも登場人物Bでも登場人物Cでもない、第三者の視点、離れた部外者の視点である。離れた座席から演劇を観劇している感覚に近い。演劇では実際に言う台詞と心の台詞との区別が難しいため、すべて実際に言う台詞になる。実質、心の中の台詞は使えない。それと同じように、客観ショットを使用している時には登場人物の内面には踏み込みづらいし、踏み込まない。登場人物とは違う、完全に第三者の傍観者ポジションなのである。これが、三人称客観視点である。

漫画の場合は、三人称客観視点でもフキダシを使って登場人物の内面(心の台詞)を見せることができるが、三人称客観視点の小説は、登場人物の内面には立ち入らないでひたすら第三者的なポジションから物語を書く(≒語る)。

三人称客観視点は、コトを語る点では利点がある。だからこそ、『オデュッセイア』などの叙事詩――文字通りコトを語ったもの――や『旧約聖書』は、ほぼこの三人称客観で語られているのだろう。ほぼと言うのは、三人称客観と言うには微妙な箇所があるからだ。

 煌く眼のアテナはこのように語ると立ち去ったが、
まるで鳥のように、天井の穴を飛び抜けた。テレマコスの心には
力と勇気を植えつけ、以前にも増して
父への思いを募らせた。こちらは心中それと気づき
驚愕したのは、神であったと悟ったからだった。

『オデュッセイア』(中務哲郎訳、京都大学学術出版会)

内面に踏み込んでいる。この場面は、三人称客観とは違う世界に足を踏み入れているように見える。

――脱線から戻ろう。ともあれ、三人称客観視点は、コトを語るには適している。それも伝説などの遠い過去のことや英雄叙事詩を語るには適している。遠い過去のことを語るには登場人物の内面は推量するのが難しく、登場人物の行動(アクション)と言葉があればよい。だから、『ニーベルンゲンの歌』なども、三人称客観で、人物の行動(アクション)と言葉だけで記される。

むかしブルゴントの国に、いともあてなる姫が生まれた。
その名をクリエムヒルトといい、世にまたとあるまじき美しい姫で、
やがてひとりまえの麗人として生い育ったが、
彼女のためにはあまたの勇士が命を失う運命であった。

『ニーベルンゲンの歌』(相良守峯訳、岩波文庫)

三人称客観視点の小説や物語は、登場人物の行動(どんなアクションや反応を見せたか)や具体的に口に出して言った台詞の2つで構成される。登場人物の心の中の台詞(感じたことや考えたこと)は構成要素に含まれない。だから、

(くそ……よくもおれを馬鹿にしやがって……)

みたいに、心の中での台詞が()などの記号で囲まれて表現されるということもない。

三人称客観視点は、コトを書くには適している。それは叙事詩に限らず、小説でもそうだ。内面を見せずにコトを見せたい場合、ぼくも三人称客観視点を使う。ただ、作品全編で三人称客観視点を使うということはしない。一場面だけ使って、別の三人称の視点を使う。三人称の視点は、三人称客観1つだけではないのだ。全部で4種類ある。すべてを列挙すると、こうなる。

・人物の内面に立ち入らない三人称客観視点
・一人の内面にだけ立ち入る三人称一元視点
・複数人物の内面に適切なタイミングで立ち入る三人称多元視点
・全員の内面に自由自在に立ち入る三人称神様視点

小説は、漫画や映画や他のエンターテインメントの中で、最も内面を見せるメディアである。あまり内面を見せずに行動(アクション)とセリフばかりで書くと、「脚本かよ!」「ゲームのシナリオかよ!」と言われてしまう。三人称客観視点だけで全編を書いて商業作品として出すのは難しい。

三人称一元視点は先に少し説明したが、主観ショットだけを使うものと、客観ショットと1人だけに主観ショットを使うものの2つがある。補足すると、主観ショットオンリーのものは、視点となる登場人物が「ぼく」「わたし」という一人称で指示されるものと、「彼」「彼女」という三人称で指示しうるものと2つある。小説の世界では、「ぼく」や「わたし」という一人称で指示される者も、登場人物の一人である。さらに補足すると、「客観ショットと1人限定で主観ショットを併用する三人称一元視点では、主観ショットのみで書く場合に比べて、物語を語れる範囲や見せる範囲が広くなる。何よりも主観ショット時には、主観ショットで世界を見ている人物の内面を見せることができる

ところで、主観ショットを使う人数を2人以上にするとどうなるのか。たとえば、客観ショットを使いながら、登場人物Aの視点(人物Aの主観ショット)や登場人物Bの視点(人物Bの主観ショット)を使うとどうなるのか。

実はこれが、三人称多元視点である。客観ショットを使いながら、同時に2人以上の登場人物に主観ショットを使うものが、三人称多元視点なのだ。三人称多元視点を使うと、三人称一元視点に比べて物語を語れる範囲や見せる範囲がさらに広くなる。物語がいろんなレベルで同時進行する姿を見せることができる(たとえば、ここで登場人物Aがこういうことを考えていて、ここでは登場人物Bがこういう悪巧みを考えていて、登場人物Cはこういう気持ちでいて、それぞれの人物たちの思惑がこんなふうに具体的な行動になっていって絡み合って……という感じになる)。内面が見える登場人物が増えるので、物語の厚みも増す。

さらに主観ショットを使える人物を登場人物全員に最大限に拡張して、いつでもどこでも主観ショットを使える状態にするとどうなるか。それが三人称神様視点である。

三人称神様視点の特徴は、いつでもどこでも、全員の登場人物の内面に踏み込んで見せることができるということだ。神様視点の神様とは全知全能の唯一神。人の心はいつでもお見通しなのである。

ただ――この「いつでもどこでも」というのが曲者で、いつでもどこでも見せられるので、「ここが不透明でわからない。どうなるんだろ?」と読者がなるタイミングに「この時、こやつはこう思っていた」と書き手がバラしてしまうので、ミステリー性が下がってしまう。また登場人物の内面描写によってストーリーが中断されることが多発する。純粋に面白いお話を書くという点では、決して有効な視点ではない。登場人物の心を百科全書的に見せたいという古い物語的な願望にとっては三人称神様視点は便利だろうが、面白いストーリーを書く場合には三人称多元視点ほどは向いていない。

余談になるが、三人称一元視点から三人称神様視点までの3つの視点は、三人称n元視点として表現することができる。この場合、n≧1である。は、視点となる登場人物の数である。視点とならない登場人物はnにカウントされない。また、書き手は登場人物ではないのでnに含まれない。n=1の時が三人称一元視点、nが作品内での最大値を取る時が三人称神様視点である。その中間が三人称多元視点である。ちなみに三人称客観視点とは、登場人物が視点とならないもの、視点となる登場人物が0人のものである。

さて、今まで主観ショットと客観ショットという映像の用語を切り口にして、一人称視点や三人称視点を説明してきた。ここから藤井貞和氏の物語の四人称の話に踏み込もう。

前提知識として、文法や談話(リアルの会話)の世界では、

第一人称……話し手
第二人称……聞き手
第三人称……それ以外の人や物

ということになっているらしい。一人称、二人称、三人称は、正式には第一人称、第二人称、第三人称と言うのである。松山幹秀氏は「英語の人称世界(シンポジウム 文化としての言葉:あなたと私の世界)」の中で、第三人称という言い方は正確ではない、「三人・事物称」だと指摘している。

ともあれ、第一人称・第二人称・第三人称の前提的な定義から、「第三人称は話し手にとっての客体であって、第三人称の心の中を書くことは原理的に不可能である」という主張が生まれる。何かに対して考えるのは主体がなすことであり、客体にはできない、そして主体は一人称で、客体は三人称だからという理屈である。

彼は非常に悔しかった。腹立たしくてならなかった。あまりにも腹が立って、殺してやりたいとすら思った。

というのは、純然たる第三人称としては成立しないと言われる。客体には主体の行動(心の中で思う)は取れないのだ、何かに対する印象や思考、すなわち内面を見せることができるのは第一人称だけであると。

リアルの会話(話し言葉)ならばそうであろう。リアルの会話ならば、

「あの子はおれをじっ~と見て、ああ、なんて美しい人なんだろうと」
「そう言うたん?」
「いや、心の中の台詞。おれの推測」
「なんや、妄想か」

ということになる。話し言葉――会話――では、第三人称は思考の主体にはならない。別の言葉で言うと、心の中の台詞の主体にはならない。すでに話し手が一人称という形で現れている(現前している)からだ。だが、話し手が一人称という形で現れない書き言葉ならば?

B子はA男をじっと見て、なんて美しい人なんだろうと思った。

と書けてしまう。小説の書き手としては何の問題もない表現だが、上の第三人称――心の中の台詞を吐露できる第三人称――に対して、藤井貞和氏は物語人称、あるいは四人称という名前をつけて、三人称とは分けて立てている。雑な説明をすると、そうなる。もう少し丁寧に説明しよう。

藤井貞和氏は、『物語論』(講談社学術文庫)の中で、次のように説明を始めている。

談話の場で、話し手、聞き手(聴き手)、そして話題となる第三者のことを、それぞれ、一、二、三人称とする。それが人称についての定義ないし取り決めである。

(藤井貞和『物語論』、講談社学術文庫)

この前提から始めて、『源氏物語』の一節を例に引く。柏木という男性主人公が女三宮を目撃する場面である。

木丁の際、すこし入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり。階より西の、ニの間の東のそばなれば、紛れ所なくあらはに見入られる。紅梅にやあらむ……

(『源氏物語』若紫上、五-三五〇頁)

上の原文は次のように訳出されている。

(几帳の際を、すこしはいっている距離に、袿の装いでお立ちになっている人がいる。きざはしから西のニの間の東の傍らだから、紛れる箇所もなく露わに見入られる。紅梅(襲)でどうやらあるらしい……)

藤井氏が注目するのは、「紅梅にやあらむ」の箇所である。談話の場では、話し手が話題になる者について語っていて、話題になる者が心の中に思ったことを表すということはない。心の中に思ったことを表すのは、話し手のみである。このルールを、藤井氏は、談話の場ではなく、語りの場(物語の世界)にも適用する。話し手(一人称)がいて、その話し手が、話題となる第三者(柏木という男性主人公)について語っているので、心の中に思ったことが表れるのは、話し手(一人称)以外ありえない。にもかかわらず、話し手以外の者の内面が語られている――。

心の中に思ったことが表れるのは、話し手(一人称)だけ。この場面では、話し手≒語り手は見えない状態、ステルスの状態にあるが、「紅梅にやあらむ」と言えるのは、本来は話し手≒語り手だけのはずである。語り手の話題となっている者ができることではない。だが、ここではその「できないこと」がなされている。話題となっているもの、すなわち三人称の人物が、まるで一人称のように振る舞っている――。つまり、三人称に一人称が重なっているような状況になっている。

その三人称である柏木が、自身の一人称的視点で女三宮を見る、そして「紅梅にやあらむ……」と思うのだから、何と何がかさなるかと言うと、主人公の三人称にその人物(柏木)の一人称が覆いかぶさってくる。三人称の主人公が〝私〟という一人称で見たり考えたりするようなのを、私は〝物語人称〟と認定しようと思う。

小説の書き手としてはしっくりこない説明である。藤井氏はあとで物語人称を「人称の累進」という形で論を進めて「四人称」と名付けることになるが、やはりしっくりこない。我々は四人称で物語を書いているというのだろうか?

英文学教授の松山幹秀氏は、「英語の人称世界(シンポジウム 文化としての言葉:あなたと私の世界)」の中で、次のように指摘している。

おそらく、私たち日本人が「人称」という言葉を最初に目にしたり耳にしたりするのは英語を習う際に「三人称、単数、現在では動詞にsをつける」という規則を教わる時ではないかと思います。その時に、一人称は話し手、二人称は聞き手、三人称はそれ以外というふうに習うわけですが、ここで、この一人称、二人称、三人称という区分をよく注意してみると、異なる原理によって規定されていることに気がつきます。つまり、一人称、二人称は肯定的な規定がなされているのに対し、三人称は「それ以外」と否定的な規定がなされているのです。そしてこの否定的な規定が含まれる限り、人称は三つであって、三つに限るということになるのです。「四人称」とか「五人称」とかがないのもこの理由によるものと言えます。

「英語の人称世界(シンポジウム 文化としての言葉:あなたと私の世界)」

この説明によれば、そもそも四人称というネーミング自体がナンセンスなのである(四人称を提唱するのなら、そもそも「第一人称と第二人称以外のもの」という第三人称の定義自体を変更しなければならない)。そしてナンセンスなのは、主観ショットと客観ショットの組み合わせでも説明できる。

木丁の際、すこし入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり。階より西の、ニの間の東のそばなれば、紛れ所なくあらはに見入られる。紅梅にやあらむ……

この場面は、ヴィジュアル的には男性主人公・柏木の主観ショットとして捉えることができる。

ならば、この場面は一人称視点と言えるのでは?

主観ショットであっても、即、一人称視点とは言えないことは前述した通りである。三人称視点の小説でも、主観ショットは部分的に使用する。そもそも、「視点」と「主観ショット/客観ショット」との関係は、次のようになっていた。

・主観ショットオンリー……一人称視点と三人称一元視点
・客観ショットオンリー……三人称客観視点
・主観ショットと客観ショットの併用……三人称一元視点、三人称多元視点、三人称神様視点

この観点から見ると、四人称と名付けられているものは、「主観ショットと客観ショットの併用」に含まれる。主観ショットと客観ショットを併用するものは、三人称一元視点や三人称多元視点で、すでに存在している。わざわざ四人称と名付ける必要性を感じない。

主観ショットと客観ショットで視点を整理して四人称を見ても、やはり結果は変わらない。

・一人称視点……主観ショットオンリー
・三人称客観視点……客観ショットオンリー
・三人称一元視点……「主観ショットオンリー」と「主観ショットと客観ショット併用」がある
・三人称多元視点……主観ショットと客観ショット併用
・三人称神様視点……主観ショットと客観ショット併用
・四人称視点……主観ショットと客観ショット併用

正直、四人称視点が蛇足になっている。果たして四人称視点を唱える意味や理由はあるのだろうか? 自分にはゼロのように思えてしまう。そもそも、小説(≒物語)の視点としてはこれだけ複数あるわけだから、三人称多元視点だけを取り上げて「物語人称」とネーミングする意味も意義も、ぼくは感じない。

物語と小説は完全にイコールではないし、両者はまったく同じものではない。だから、物語の書き手と小説の書き手も同じではないと主張できるかもしれないが、この1000年間で人の目に変化はあったのだろうか? 平安時代の書き手も、視覚的には自分たちと同じようにものが見えていたのではないか。そして物語を書く時にも、やはり同じように見えていたのではなかろうか。平安時代に主観ショットと客観ショットという言葉はないけれど、2つのショットを思い浮かべながら物語を書いていたのではないだろうか? 主観ショット的な見え方(視覚映像)と客観ショット的な見え方(視覚映像)とは、平安時代の人にも、日常の中で確固としてあったのではなかろうか? 平安時代の人たちが違う動物でない限り、今の自分たちと同じように主観ショット的な視覚映像(近接の対面的見え方)と客観ショット的な視覚映像(距離を置いた、傍観者的な見え方)とがあったはずなのだ。そこは変わらないはずなのだ。

一人称だけが「考え、感じる主体」として存在し、三人称は一人称が見る対象、見る客体としてのみ存在する。それはあくまでも談話――話し言葉――での世界での話だ。談話の世界(話す世界)では、相手とは近接して対面しているので、見えている映像はこうなる。

しかし、書き手の世界、物語の世界で見えているのはこうである。

人と対面している場合には、映像は今、「現前(presentation)」している。しかし、書き手の場合には、状況を「再現前(representation)」させている。現前と再現前は、決して同じではない。現前の世界である「話す世界」と再現前の世界である「(物語を)書く世界」も同じではない。だが、同じと勘違いして論を進めたところに、藤井氏――国語学全体のか?――の問題があるんじゃないの? と門外漢の自分は思ってしまう。

目の前に受け手(聞き手)がいる、現前している場合、話すことと語ることは近くなるだろう。だが、非現前で(物語を)語るとなると、話すことに対して大きな違いが生じてしまう。同様に、話すことと書くこと――書くのは非現前が前提――の間にも、大きな違いが生じてしまう。「話すこと」と「書くこと(≒非現前で語ること)」は違うものなのだ。それは書き言葉と話し言葉が違うという事実にも表れている。書き言葉を話し言葉に一致させるという明治期の言文一致運動の中で生み出された、新しい日本語の書き言葉――そして創出された小説の言語(聞き手の非現前での語りの言葉)――は、話し言葉とは違うものだった。そもそも書き言葉と話し言葉は違うものなのである。『日本語の歴史』シリーズの『新しい国語への歩み』の中でも、そのことが指摘されている。

「ぜひここで指摘しておかねばならないことは、言(口頭言語)と文(書記言語)とは、じつは本質的に異質のものだ、ということである。すなわち口頭言語は目前の相手に対して、談話の当事者関係においてする伝達の言語である。これに対して、書記言語のほうは、考えたり、あるいは感じたりした内容を、自己の内面において客観化する認識の言語である。……こういう言文の根本的な不一致は、かならずしも日本語のことだけではなく、伝達と認識の差として、すべての言語に共通する本来的なものというべきであろう」

(平尾昌宏『日本語からの哲学』、晶文社)

話す世界と書く世界は、全然イコールではないのだ。そして、書き言葉が考えたり感じたりした内容を自己の内面において客観化するものだとするならば、三人称で三人称の人物の内面が記されることに不思議はない。藤井氏の議論は、話し言葉(口頭言語)と書き言葉(書記言語)の違いとを踏まえない、不正確な議論と言えよう。

藤井氏は、『物語論』の中で、かつて平安時代中期、物語が談話――とりとめもないおしゃべり――という意味だったことを記している。非常に興味深いはなしだが、物語が成立して以降、物語は談話とは違う世界に変わった。談話と物語との間には大きな違いが――口頭言語と書記言語との違いが――横たわっている。だが、その違いは学者には認識されているように思えない。

なぜなのだろう? なぜ違いが認識されないのだろう? 論者自身が物語を書くということをしない、物語づくり(≒小説創作)の門外漢だから? だから、話す世界と語る世界とを誤って同一視して、誤った考えを提示した?

いささか雑な推論である。どうやら本当の理由は、物語に対する捉え方の違いにあるようなのだ。

推測になるが、恐らく学者の方は物語を、人物やコトをめぐる筋書きとして捉えている。この場合、物語自体が語る対象となり、物語の中身(コトやモノも人も)はすべて客体となる。聞き手は受け身なので、主体とはなりえない。客体もモノと同じなので主体とはなりえない。感じる主体、考える主体となるのは話し手一人だけ――すなわち第一人称だけということになる。物語を「人物やコトをめぐる筋書き」として捉える限り、この帰結に変化はない。

話し手が目の前にいる聞き手に対して話す場合、話す相手は第二人称となり、話す対象(内容)は客体となる。話し手が目の前にいる聞き手に対して語る場合にも、やはり同じことになる。目の前にいること、すなわち現前性においては、「話し手=唯一の感じる主体、考える主体、聞き手=受け身の第二人称、話される内容(人物やモノやコト)=客体」という構図は永遠に変わらない。

だが、学者の方は非常に重要なことを5つ忘れている。

1つ目。物語の人物は、「登場人物」である。登場人物とただの人物は違う。ただの人物は、会話の時に生身の人間が対面する生身の人物とイコール的に捉えられてしまう存在だが、登場人物はあくまでも物語中の存在である。この意識が、学者の方には不足しているように見える。登場人物を物語中の存在ではなく、生身の存在とイコール的に捉えてしまうと、話し言葉と書き言葉の違いに気づけなくなってしまう

2つ目。話し言葉(談話で使う口頭言語)と書き言葉(物語を書く時に使う書記言語)とは異質のものであり、書記言語の機能には、感じたことや思ったことを客観化するというものがある。学者の方は、そのことを充分に踏まえて議論していない。

3つ目。物語を書く時、読み手は目の前にはいない(現前していない)ということ。つまり現前性はない。別の言葉で言うなら非現前である。聞き手が現前している場合、話者が語る内容は客体となる。人物も客体となる。だが、聞き手が現前していない場合――つまり、書く場合――には必ずしもそうはならない。学者の方は、聞き手(受け手)の現前と非現前(聞き手や受け手が今目の前にいるかいないか)の違いをほとんど認識できていない

4つ目。物語を書くとは、ある特定の人物を視点にして物語を書くこと。この最も重要な4つ目のことを、学者は認識していない。くり返すが、物語を書くとは、ある特定の人物を視点にして物語を書くことである。その人物が「わたし」「ぼく」で指示される者ならば、一人称の視点となる。「彼」や「彼女」で置き換えられる者ならば、三人称n元視点となる(n≧1)。

5つ目。4つ目から帰結されるさらに重要なことだが、ある登場人物を物語の視点となした場合、その登場人物は主観ショットで世界を見る存在となり、感じる主体、考える主体となるのである。ある登場人物を物語の視点に据えるというのは、その登場人物に(感じる&考える)主体性を付与するということなのだ。それは心の中の台詞を吐露する存在にするということである。

三人称客観視点の場合、視点となる者は、登場人物には存在しない。視点となるのは名もなき透明な抽象的存在である。叙事詩や伝承の語り手の場合は、現前性の下での語り手になるので、語り手が語る人物は客体となる。また小説の場合は、視点となるのは純粋なカメラである。カメラは人物ではないので、主体性は付与されない。結果、感じる主体、考える主体は存在しないので、作品内に登場する人物は客体となり、終始客体として描かれる。

だが、三人称n元視点(三人称一元視点や三人称多元視点、三人称神様視点)の場合、視点とされた人物には主体性が付与される。視点とされた人物は、感じる主体、考える主体となるのだ。ヴィジュアル的に言うと、客観ショットで第三者的に――モノ的に――見られる客体的存在だけではなく、主観ショットで世界を見る主体(存在)になるということである。ただ行動し、台詞を言うだけの存在ではなく、心の中の台詞も吐露する存在になるということだ。ある登場人物を視点に据えると、その登場人物は主体となるのである。

物語を書くとは、非現前の読者(目の前にいない読者)に対して物語(人物とコト)を客体として書くことではない。ある登場人物を物語の視点となし、その登場人物を主体性の持ち主として書くこと――行動し、台詞を言い、心の中の台詞を吐露する存在として書くことなのだ。そもそも書記言語(書き言葉)が、感じたことや考えたことを客観化する機能を持っていることも合わせて考えれば、第三人称で指示しうる特定の登場人物が「感じる主体や考える主体」となるのは、当たり前のことなのである。

だから、「物語として示されたことは客体(主体にはならないもの)であり、当然、物語中で第三人称で示される登場人物も客体(主体にはならないもの)であり、したがって第三人称で示される人物が心の台詞を吐露するような主体になることはありえない」などと言うのは、そもそも物語の定義を間違えているのである。物語を書くというのを、論文を書く行為とまったく同次元に捉えているのだ。読者の現前と非現前の違い(受け手が目の前にいる、いないの違い)も把握していないし、「誰かを視点に据えて書く」という物語の重要なこともつかんでいないし、話し言葉と書き言葉の違いも認識していない。この貧困な把握、あまりにも無残な把握が、物語人称とか四人称とかいった残念な把握を導いたのだろうと思う。恐らく学者の方の物語の把握は、叙事詩レベルの「コトの記述」で止まってしまっているのだろう。コトの記述ならば心の台詞はないし、記述される中身はすべて客体となる。だが、物語はコトの記述ではない。ただ登場人物の行動(アクション)と口に出した台詞を記述したものではない。登場人物の心の中の台詞も表現したものなのだ。心の中の台詞を表現しないものは、物語以前のものなのである。

最後に蛇足を。
上記の議論とは全然関係ないんだけど、伝承の記録や叙事詩や昔話や物語の系譜を見ていて、最初は史実的なコトを語るコトガタリから、空想的な、ヒトとコトを(比較的)自由に語るモノガタリへと向かい、ヒトのココロを語る小説に向かったのか? コトガタリからモノガタリ、そしてココロガタリ(小説)へと発展していったのか? みたいなことをちょっと考えた。まだ思いついただけの段階です。

さらに蛇足を。
三人称n元視点(n≧1)という言い方をしましたが、三人称客観視点は、三人称0元視点(n=0の場合のもの)として捉えることができるかもしれ ない……。

繰り返しになるが、三人称n元視点の「」は、視点となる登場人物の数である。n=0の時、視点となる登場人物はいない書き手は登場人物ではないので、nに含まれない。したがって、三人称客観視点は、視点となる登場人物が1人もおらず、登場人物ではない存在のカメラによる第三者的な視点だと言える。

ところで、「日本語は主語を省略する」ということと「n=0」とはまったく関係がない。nは、視点となる登場人物の数である。主語を省略しようがすまいが、視点となる登場人物はいたりいなかったりする。また、『オデュッセイア』は古代ギリシアの叙事詩、『ニーベルンゲンの歌』はドイツの叙事詩だが、ともに三人称客観である。「日本語は主語を省略する言語だから」というのはますます関係がない。

n=0を考えるのは、三人称客観視点が、視点となる登場人物が0人の状態だという把握、第三者的なカメラの視点だという把握の参考にはなる。ただ、「三人称n元視点」(n≧0)としてしまうと、記述に問題が発生する。「主観ショットを併用しない三人称客観」と「主観ショットを併用する三人称一元視点、三人称多元視点、三人称神様視点」を区別して書く時に、「三人称客観視点と三人称n元視点」のようにスマートに記すことができない。「三人称客観」と「三人称一元視点、三人称多元視点、三人称神様視点」とか、「n=0の場合の三人称n元視点」と「n≧1の場合の三人称n元視点」という、洗練からほど遠い長ったらしいものになってしまう。スマートじゃないからn≧0はやめよう。


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