多様性への配慮が、唯一の態度を強制するものになってはならない

「境界のないセカイ」連載終了について。

その理由について、ハフィントンポストはこう伝えている。以下、作者・幾屋大黒堂さんのブログから抜粋。

講談社さんが危惧した部分は作中で"男女の性にもとづく役割を強調している"部分で、「男は男らしく女は女らしくするべき」というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした。

転載終了。

もしこの理由が本当の理由を隠すためのものならば、理由は別のところにある。だが、そうではなく真実の理由だとするのならば、ただの過剰反応。ただの腰抜け。エンターテインメントをつくる資格なし(ぼくは腰抜けという言葉も資格なしという言葉も、奮起を促すために使っている)。

エンターテインメント業は、政治家の世界ではない。批判回避が第一義ではない。作品が売れれば売れるほど、批判は来るものだし、それを受け止める覚悟がなければ、エンターテインメントをつくることはできない。

そもそも、作品とは批判を回避するためにつくるものではない。批判を覚悟でつくるものである。批判(クレーム)回避を第一義に持ってくるのだとするなら、その会社にエンターテインメントをつくる資格はない。そういう者たちは、永遠にエンターテインメントの世界から遠ざかった方がよい。エンターテインメントの世界は、クレーム回避が第一の世界ではないからだ。

「まずはクレームを回避しよう」というのは、配慮ではなく、ただのびびりである。無意味な自粛である。

皆に問いたい。そんなびびり、そんな無意味な自粛から、面白いものは生まれるだろうか?

腰抜け具合が絶対作品に反映されて中途半端になってしまって、面白さは薄れてしまう。当然、いい作品は生まれづらくなってしまう。結果、かえって会社の業績を下げてしまう。自分も結果を残せなくなってしまう。

関係者として過剰に自粛しようという気持ちになってしまうのは、個人的には理解できるのだが、そこでびびってはいけないのである。そこでびびらずにクレーム(の予想や不安)を乗り越えて面白いものをつくろうとするから、いい作品が生まれる確率が上がるのである。

というわけで、性的マイノリティへの態度(配慮)について。

性的な「多様性」の容認や配慮が、逆に行き過ぎて、性に対するただ1つの態度(性的な多様性を受け入れろ、性的な多様性を受け入れないような発言をするな!)を全員に命じて、多様性とは真逆の地点に突き進むことは、避けねばならない。

性的な多様性を認めましょう

性的な多様性を認めない発言や態度は、絶対許さないざます

こうなってはいけない。また、配慮はこういう形で突き進んでもならない。

性的な多様性を認めようと言って寛容を呼びかけているのに、まったく寛容さを認めず不寛容の極致に向かうのは、矛盾している。そして、この手の矛盾は、誰も幸せにしない。

多数者のために少数者が虐げられることがあってはならないが、同様に、少数者のために多数者が虐げられることがあってもならない。

少数者たちを容認することは大切だが、だからといって、少数者を受け入れない者を排斥するという方向に向かってはならないし、また配慮がそういう形で進んでもならない。

ぼくのいるエロゲー業界でも、批判回避を第一義に考えてしまう人が少なからずいるという。

だが、読者は、クレーム回避をエンターテインメント業界に求めているわけではない。読者は、エンターテインメント業界を政治家と同じ世界だとはちっとも思っていないのだから。

エンターテインメントの第一の目的はクレーム回避ではなく面白さの追求であること、エンターテインメントは大衆の憂さを晴らし、ドキドキやワクワクの濃密な時間を提供するものであること、そして面白い作品は批判を覚悟した境地から生まれることを理解してくれる人が増え、そして骨のある関係者たちがさらに増えることを、ぼくは強く願っている。

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