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円城塔 「言葉と小説の果て、あるいは始まりはどこか」インタビューより

今回はエクリヲVol.8においての特集「言葉の技術としてのSF」を取り上げたい。冒頭の作家円城塔へのインタビューは主に言葉や文章とSFというジャンルの関係性について考察したものとなっている。

 SFと言えば、宇宙や科学技術が進歩した近未来を舞台にしたファンタジーだという印象があった。見たことのない世界、現代の常識が通用しない枠組みの中で生きることは非常に恐怖を伴うものだ。SFというジャンルは、そういった恐怖に裏打ちされた世界の中に人を置き、人がどのような行動に出て、どのような結末へ向かうのか、若しくは人はどうあるべきかということをテーマにした一つの物語形式といえる。

 そして、こうしたSFというジャンルが持つ世界観の特性からして、SFはアニメや漫画という媒体形式になじむ創作ジャンルであり、小説であえてSFというジャンルに挑む意義はあるのか、私はこれまで懐疑的であった。

 しかし、言葉や文章というものにもし恐怖が潜むのであれば、それを正面から見据え、言葉や文章が持つ恐怖を拡幅させた世界観を描いたものも、SFと呼べるのではないか。そして、そういう種類のSFは、小説というテキスト形式の枠組みの中でこそ挑まれるべき創作ではないか。今回のエクリヲVol.8の冒頭で「言葉と小説の果て、あるいは始まりはどこか」というインタビュー記事の中で、作家円城塔はこうした問題提起をしている。

 私が円城塔について知ったのは、伊藤計劃との共著である「屍者の帝国」であった。早逝した伊藤計劃の著書を円城塔が引き継いで完成させたと聞いた時、私は伊藤計劃の創り上げたかった世界観を円城塔が引き継げるのか、疑問だった。特に小説という創作形式は、作者が通常一人で一貫した思考により創り上げるものだから、ましてや最初に書き始めた著者が逝去してしまい、もはや確認のしようもない中で、その思考を共有することができるとは思えなかったからだ。さらに、伊藤計劃が創り上げようとしていたSFの枠組みは、これまでの宇宙や近未来といったメジャーなものではない枠組みであったことも、私の疑問を濃くした理由の一つである。

 では、伊藤計劃の創り上げようとしたSFの枠組みとはどのようなものであったのか。それは、伊藤計劃の最初の作品である「虐殺器官」に如実に現れている。

 虐殺器官というのは、文字通り人を殺戮する器官のことであり、これを聞いて想像するのは、例えば化学兵器であったり、生物兵器であったり、そういった新型の人を殺す兵器だろう。しかし「器官」と言う以上、これは人間の身体的部位の一つの機能を指すわけで、人を殺す人の機能とは一体何かということになる。それは、この作品野中では「言葉」なのだ。言葉は人を殺す、いや人を殺させる兵器ともなる。それがこの作品のテーマである。言葉や文章が持つ怖さの一つを描いた確かにSF作品と呼べるものだ。

 伊藤計劃は、このように言葉や文章が持つ怖さを、SFに必須の未知の恐怖の要素として採用した作家であった。

 円城塔は言葉や文章が持つ怖さについて、伊藤計劃と同様の考え方に立つ者として、今回のインタビューの中で解説している。

 まず言語について、二つのフェーズに分けて考えるべきとする。一つは、脳神経系のような形での情報処理であり、もう一つは文法的、公理的なものである。後者のみ判明すれば、それを真似ることで文章を生成すること自体は可能だとする。結果として、AIが言葉を話すということが現代において可能となっている。

 ただ、前者の脳神経系における情報処理については、理解が進んでいない。理解が進んでいないことがまず恐怖の源となる所以だ。

 次に小説についてである。小説というのは、文法化されているように見えるマクロシステムを利用して、脳神経系により紡がれたシグナルを扱う技術だというが、マクロシステムの公理が脳神経系のミクロシステムをコントロールできるというのはただの錯覚であるとさえ述べている。

 さらに面白い視点は、現代においてはテクノロジーの進化であたかも思考と文章が直結しているかのような幻が強化されているとする視点だ。誰かが書いた文章によって自分の思考が自分独自の思考ではなく社会の画一的な考え方に追い込まれている危険を指摘した。言うまでもなく、これも文章というものの恐怖の一つである。

 最後に、SFというジャンルが果たすであろう今後の役割についてである。

 科学、つまり時代を取り巻くテクノロジーの変化のスピードの方が、社会における言説の変化のスピードよりも断然速い。このため、その時代における言葉や文章によって時代を描き、時代の求めるものを綴るためには、両者のスピードの差によって生まれた溝を埋める何らかの仕掛けが必要で、それがSFという枠組みではないかという。

 なるほど、時代を描き、もしくは時代が求める主張や考え方を表現しようとしても、言葉や文章が時代よりも遅いスピードでしか変化しえない以上、どこまで行っても言葉や文章では表現できないことになる。このいわば言葉や文章の変化のスピードの限界は、また言葉や文章が持つ怖さの一つであるといえるだろう。

 しかし、SFという手段がその恐怖への対抗策として与えられている唯一の手段ともいえるわけで、そう考えると今後のSFには無限の可能性しか感じないのは私だけではないはずだ。

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