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フィクションとノンフィクション

本のジャンルの分け方は細かく分ければ、文芸、伝記、雑誌、趣味、教養などなど様々であるが、大きく分けると、フィクションとノンフィクションの二つに分かれる。私はこれまでノンフィクションは好まなかった。書く立場の全くの他人が、現実に生きた人間のどこまでを詳らかにしていいのか、できるのかという疑問があったからである。

そもそもフィクションとノンフィクションの違いは、端的に言うと、フィクションは現実に起こったことではない虚構である一方で、ノンフィクションは現実に起こったことである点である。ただこの違いは、現実を文章にした時点で、限りなく両者は近づくように感じられる。

 最近読んだノンフィクションに梯久美子さんの「狂うひと~死の棘 島尾敏雄の妻 島尾ミホ」がある。梯久美子さんは戦争体験に基づくノンフィクションで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなどした実績の持ち主である。

 死の棘という島尾敏雄の小説の内容は、端的にいえば男女の業を書いた作品である。終戦直前に死を目前にした極限状態の中で愛し合うようになった男女が、終戦によりその状態を脱し、平穏な日常生活をそのまま平和に送ればよかったのに、夫が浮気をし、妻がその裏切りにより精神的に不安定になって、夫がその罪滅ぼしに残りの人生を捧げていく話である。

梯久美子さんは、妻である島尾ミホに主に取材をし、死の棘という作品が島尾夫妻の実生活であったことを明らかにした上で、浮気相手となった愛人にも取材し、仮名でノンフィクション上に登場させるのだから驚いた。

極限状態で結びついた男女の間を何がどう変えたのか、その変化で生まれた隙間、その隙間を愛人がどうして埋められたのか、若しくは埋めようとしたのか。そんなことをノンフィクションの中でたどりたかったに違いない。

そして、島尾敏雄亡き後のミホの様子も取材することで、男女の業の怖さを乗り越えるために必要となる覚悟というか、愛するということの芯みたいなものを明らかにする心意気が感じられた。

さて、ここでふと私が疑問に思ったのは、冒頭にも少し触れたように、ノンフィクションというのは現実に生きた人間の人生を書くわけだから、プライバシーにも踏み込むわけで、その点に抵抗を感じる取材対象者も珍しくないだろうと予想される。だから、取材自体がなかなか実現しないのではないだろうか。梯久美子さんは、この点について、いつもまず取材対象者に手紙を出すのだという。手紙には、どうして自分が取材をしたいのか、取材をしてどんなことをノンフィクションとして世に出したいのか、そういう点を書くのだそうだ。

意外だったのは、こうした手紙を受け取った取材対象者はほぼ取材をOKしてくれるという点である。もちろん実名で公表しない等プライバシーに配慮することは約束するのだが。そして興味深かったのは、梯久美子さんが言うには、仮名で登場させるという時点で、その事柄はフィクションと同じような立ち位置になるという考え方をしている点である。

実際の誰かの体験であることは間違いないが、実際に生きているAさんという人物と具体的に結びつかなければ、その体験は個別具体的な人物から独立してフィクション(ストーリー、話)としてだけ存在するようになるというわけである。

 翻って、フィクションについて考えてみよう。 フィクションというのも例えばSF等のいわゆる現実とは全く違う世界観を構造的に持つものもあるが、例えばこの世界観という要素を差し引いてストーリーの展開だけを見てみると、主人公となる人物(一人称で書かれる場合であれ、そうでない場合であれ)が、生きていく時間の中で、誰かと出会い、何かの障害にぶち当たり、決断し、その結果が周囲へ少なからず影響を及ぼす。その作用の一部始終を書くわけで、具体的にこの一部始終は、その人物の五感や情動を追うことで書かれるわけである。もちろんこの主人公は、現実に生きる具体的なAさんという人をモデルにする場合もあるだろう。でもAさんという人物と一対一対応するような、直接的な結びつきはない。これはノンフィクションで仮名の人物として登場する登場人物とどれくらいの違いがあるのだろうか。

 ちなみに、過去に受講した根本昌夫さんの小説創作教室で目からうろこだった話が一つある。

 小説を書きたいと思う動機を突き詰めていくと、皆共通の一つの思いに至る。それは、結局のところ自分史を書きたいという欲望である。自分史というのは、自分がこれまで生きてきた体験のことであるが、体験それ自体を、本当にそのままそっくり誰かに伝えるということが、どれくらい可能なのか。考えたことはあるだろうか。

 自分の体験を誰かにそっくりそのまま伝えるためには、どうしたらいいのだろうか。体験というのは、ある事象が起き、それに対して、自分がどう感じたか、どのような情動が起きたか。どうしてそういう風に感じるのかは、これまた自分がそれまでに体験してきたことの積み重ねで出来上がった価値観に左右されるから、遡っていくとキリが無くなる。そして、それは受け手側も同じである。結局のところ、そのまま事実をそっくり起きたとおり書いたとしても、受け手側の持つ価値観に照らし合わせた時、果たして書き手側と同じように受け手側が感じるかどうか。

そうなってくると、確実に受け手側にある情動を起こさせるためには、普遍的な情動が生じる流れを意図的に創り出す方がよいという考えにたどり着く。受け手を連れて行きたい場所に確実に運ぶためのレールを敷くということである。そのレールは、架空のエピソードの組み合わせで構成され、このエピソードはできるかぎり普遍的なものである必要がある。つまり、フィクションを効果的なものにするためには、自分が現実に体験した枠組みを捨て、割り切ってより普遍的な架空のエピソードを技術的に積み上げることが近道なのだ。

 ややこしくなってきたが、こうした考え方に立つと、ノンフィクションは誰かの体験を第三者の受け手に対して、これまた別の第三者が書き手となって伝えるということを理想としている限り、内在的な限界を持つということになる。この限界をある意味クリアするための方法が、取材対象者を仮名で登場させるという手法であると言える。逆に言えば、フィクションにおけるこうした内在的限界を元々計算に入れたジャンルがノンフィクションであるとも言えないだろうか。そもそも自分の体験をそのままそっくり誰かに伝えることは不可能である。不可能ならば、誰かの体験を、全くの第三者が、これまた全くの他人に伝えるという構造で迫ってみてもいいのではないか。むしろ、より客観的な視点で、レポートのように綴られた文章の中に自由にその趣旨をくみ取る読み手側の自由度が増すジャンルとして、ノンフィクションは存在価値があるのではないか。

 つまりフィクションは人の感情を引き起こさせることに書き手に正面から取り組むようにさせるジャンルであり、ノンフィクションは客観性を高めることで、読み手にインセンティヴを全面的に渡したジャンルである。書き手側に手番を渡すのか、読み手側に手番を渡すのか。フィクションとノンフィクションの違いとは、シンプルにこの一点に尽きるのである。

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