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写真批評 サシイロ 15 〜ヌードの醍醐味

横浜美術館で「ヌードNUDE〜英国テートコレクションより」が開催中だ。ヌードは写真の世界でも被写体としていつの時代も人を魅了してやまないものの一つである。
ヌードに対しては、写真においては二つのアプローチ方法があるように思う。
一つ目はエロスを追求する方法であり、もう一つは、逆に一切のエロスを排除して身体のフォルムの芸術的な美しさを追求する方法である。
一つ目の方法によるアプローチは、エロスを創るという意味で私の批評シリーズの「耽美を創る」という回で触れたので、今回は二つ目の身体のフォルムの芸術的な美しさを追求するアプローチについて、検証してみようと思う。

人体の構造は一般的には同じだが、当然皆の身体が同じ形をしているわけではない。その形の違いを美しいと思わせる手法もあるだろう。このアプローチは、人は皆一人ひとり違う個性があるという個性讃歌であるから、ある程度の被写体の数が必要となる。
また、ある一人の人間の身体だけを撮り続ける方法もあるだろう。この場合は、従来のシリーズでも述べているとおり、写真には被写体と撮影者の関係性が否応でも表れるから、被写体と撮影者との間が特別な感情で支配されることのないフラットな関係性で保たれる必要があるだろう。

さらに技術的なこととして、陰影の調整が必要となる。冒頭の写真は鈴木光雄氏の写真で、女性のヌードを撮影したものだが、この写真はエロスを一切排除し、女性のヌードが持つ柔らかくて丸いフォルムの美しさを際立たせている陰影となっている。鈴木光雄氏は、間違いなく「陰影のマジシャン」と呼ぶに相応しい。

陰影がなぜヌードの美しさを産むのに必須な要素なのかについて、自説を展開することが許されるのなら、陰影はある意味人生の浮き沈み、つまり波のある人生を思わせるからではないだろうか。この身体でこの人が生きてきた時間に思いを馳せながらヌード写真を鑑賞するうちに、私たちは自分と同じ時間の積み重ねを被写体に見て、悟るのだ。影があるから、光の明るさに感謝できるのだと。

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