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写真批評 サシイロ 19 〜見たことのない景色 後編

さて、風景写真の最終回は、廃墟写真を取り上げる。
なぜ廃墟写真が風景写真についての批評の最終回になるのか。風景写真は、見たことのない景色を写したものという定義づけを行ったが、見たことのない景色というのは、実際に秘境やなかなか公開されない景色やモノもそうだし、見る視点、例えば縮尺などを変えて見た景色もそうだろうし、更には人間の寿命という限られた時間以上の時間の作用で変化した景色もそれに当たると考えられる。
廃墟は、この一番最後の例に当たる。

宮本隆司氏は、「建築の黙示録」で木村伊兵衛賞を受賞された写真家だが、その廃墟写真には哀しさ、虚しさはもちろんだが、それ以上に美しさを感じるのはなぜだろうか。

人はいつの時代も、諸行無常であることは知っている。だから、新しくて流行のデザインの最先端を行っていた建築物がいつか廃墟になってしまうのは頭ではわかっていることだ。それは生まれたばかりの赤ん坊がいつか訪れる死の運命を逃れられないことと同じである。皆に等しく訪れる運命である。

だが、廃墟写真を見ていると、崩れ方はそれぞれ違うことに気付く。廃墟写真は自然の作用やもしかしたら一部人為的な作用が加わったことによる崩壊の過程、つまり死の運命の経過を、人間の時間軸の何万倍か遅くなったスピードで私たちに見せてくる。
そして私たちは気付くのだ。それは生きている時から始まっていたものだと。

崩壊の過程は紛れもなく命を燃やす過程そのものであり、逃れられない運命に対する必死の抵抗の証である。だから美しい。
廃墟写真を美しいと思える貴方は、きっと今、自分の人生という限られた時間に真摯に向き合っているのだろう。

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