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バイオアート 2 〜現代における神話の役割

神話というのは面白いもので、どの国にも昔から存在する。西欧圏ではギリシャ神話や北欧神話があるし、日本にも大国主命を筆頭に神々の系譜が古事記や日本書紀に基づき、語り継がれている。

 この神話というものは、一体何なのか。科学技術が進歩し、地球の誕生や生命がどのように生まれ、進化してきたのかということを科学的に説明できるようになった現代においても、神話は広く知られているし、語り継がれていくのは、なぜなのだろうか。

 神話は、人間の力では全く太刀打ちできないような自然の大きな力、例えばそれは古来よりいい意味では豊穣という形で、また悪い意味では災害という形で現れてきたのだが、こうした自然の力について私達が抱いている敬意や畏怖が産んだ、こうした自然の力を説明するための物語といえるのではないかと私は考えている。そして、現代においても、神話が根強く語り継がれているのは、こうした自然現象の全てを、私達人類がコントロールような状態に至っていないため、神話の役割が消滅しないからではないだろうか。

 例えば身近な例で、東日本大震災を挙げたい。

 私の個人的な体験を話すと、うちの家系のルーツは宮城県仙台市亘理郡であり、仙台市内やもちろんその亘理郡にも親戚が大勢いる。亘理郡にあった墓地にお墓参りに行ったこともあった。その墓地が、海に面した墓地だったのだけれど、東日本大震災の前後のVTRで、きれいさっぱり、本当に跡形もなく津波で消えた。後にはただの更地だけが残されている画像を見て、私は自分の身体がどんどん冷たくなっていった。連絡が三ヶ月経ってもつかない親戚も珍しくなかった。ボランティアに行っても、夏の避難所は蠅が大量発生し、箸で蠅が摘まめるぐらいの劣悪な環境となった。そんな現象を、これほど自然科学の分野が発達していても、予知できなかった。その事実が、自然という力の底知れぬ大きさ、怖さを忘れかけていた私達に改めてそれを突きつけてきた。痛烈にそんな思いに捕らわれたのだった。

 さて、前回よりバイオアートを取り上げているが、前回バイオアートは人新世を前提として、従来からの既成概念を持つ私達からすれば違和感や疑問を覚えるような現代の現象を、その違和感や疑問を正面から見据えて、生命科学的なアプローチを加えることで、私達のパラダイムをシフトさせる。そういう批判的な狙いがあると述べた。

 今回は、冒頭に述べた神話を作品のモチーフに据え、そこに生命科学的アプローチを加えたアーティスト、ケイト・マクドウェルの作品を紹介したい。

 マクドウェルは、陶磁器によるオブジェ作品を展開しており、磁器を型取り彫刻することで、細かい造形を可能としている。

 マクドウェルの作品「Daphne(ダフネ)」(2007年)は、ダフネの神話の続きである。ダフネの神話の内容は、次の通りである。

 キューピッドの矢に打たれた好色のアポロが、ダフネを自分のものにしようとダフネを追いかけた。ダフネは走って逃げながら、自分の命をかけてでも純潔を守るために、神に「私を変えてください。あまりにも人に好かれるこの美しさを滅ぼしてください」と祈った。その結果、ダフネは月桂樹となっり、アポロを失望させたが、代わりにアポロに崇拝された。このため、月桂樹の葉は今も名誉の象徴となっている。こういうお話である。

 マクドウェルは、月桂樹になり始めたダフネの瞬間を磁器で形作り、作品にした。だが、マクドウェルはそれだけではなく、ダフネを切り倒されて捨てられた木の状態で、かつダフネの表情は、月桂樹になりアポロの追跡から逃れた安堵の表情ではなく、月桂樹になりきれなかった無念さの残る顔で、神話感よりも現実感を優先させた。一般的には、この神話の持つ「欲望」と「貪欲」のいとこ同士の感情が引き起こした惨事の側面を強調した作品と解釈されている。しかし、私は月桂樹になり切らせない状態にした部分をもう少し丁寧に解釈すべきっだと考える。

 つまり、従来の神話が持つ予定調和的な路線を取らなかったことで、マクドウェルは人間は自然と離れてしまったと感じつつも、その結びつきを強く欲し、でも結果として人間と自然との関係は相反していき、その危険な一触即発の状態を表現したのではないか。

 Daphneという作品は、神話は人間の力を超越した、人間がコントロール不可能な自然現象により、人間の持つ普遍的な感情や行動原理を露呈させ、私達に問題提起をしているのだという、マクドウェルの神話に関する捉え方が如実に表れた作品なのだ。

 科学技術が発達した現代において、私達が神話と向き合う時、マクドウェルのような捉え方に立って、再度その神話の意味するところを深く考察していく必要があるのではないだろうか。

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