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写真批評 サシイロ 13 〜耽美を創る 後編

前回のサシイロ12では、耽美を構成するために必要な要素はいくつかあって、その中でも時代が必要としているエネルギーについては、私たちが生きるこの現代が求めているエネルギーとは何なのかがわからないと、現代にふさわしい耽美は創れないのではないかと述べた。
今回は現代が求めているエネルギーについて、もう少し考察したい。

演出的な技法である世界観を創り出し、それを写真に収める写真家として、沢渡朔という写真家がいる。彼の傑作は、私はやはり「Nadia」だと考えている。
Nadiaは沢渡が恋に落ちた女性で、一人の女性を徹底的に撮ってみたいと思うに至った人である。
写真を見ればわかるが、Nadiaは沢渡が創ろうとした物語の中で、時にはミューズのように、時にはただ一人の男と向き合う一人の女として、写っている。ただNadiaの表情や身体は、沢渡との関係性が変化していくにつれ、物憂げな表情や閉塞的な世界に生きる諦めのような空気を纏うようになる。
これを見た者は、男と女の理想と現実のギャップ、もっと言えば業のようなものを感じざるを得ない。
ある意味沢渡は意図してはいなかったであろうが、そういった普遍的な男と女の業を表現することに成功したわけである。ある一人の女と深く向き合うことによって。
写真の中には確かな閉塞感とわかり合えない性へどうしようもなく惹かれてしまうパッション、そして周囲を気にしない独立した2人だけの世界=エロスが存在している。それは耽美の一種だと認められるものだ。

経済はこれ以上の成長は望めず、また科学が発達した今も、先の震災のような災害により運命を狂わされることも現実にはあると実感させられたこの時代に、私たちは実は、より個と個の強い結びつきを求めているのではないか。情報過多な中から、自分だけを見つけ出してくれないだろうかという期待。ツイッターやブログでの不特定多数への発信は、その顕れとも言えないだろうか。これ以上の成長が望めないというのは、ある意味全て満たされているという状態でもあるはずなのに、私たちはどこか満たされない。その気持ちは、沢渡が表現したような男と女、いや愛し合う者たちを取り巻く普遍的な業を超越する特別で唯一無二の関係を得ることでしか、埋められないように私たちは思い、日々焦り、疲れ、また夢見ているのだ。
私はこの関係性を希求する情熱こそ、今の時代が求めているエネルギーのような気がしてならないのである。

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