英国スクエア・ピアノ事始(182)
さらに「ジルバーマンの弟子」というのも加えられて、ピアノの歴史でよく紹介されているこの「十二使徒」のエピソードですが、実の所これは根拠不明の与太話に過ぎません(初出は上記引用書)。もっとも、七年戦争(1756 − 1763)の戦禍のために多くのドイツ人が故郷を離れたことや、イギリスにおける初期のピアノ製造がドイツ人主体であったことは事実です。
伝説の常としてこの十二使徒とされる面子も一定しないのですが、ヨハネス・ツンペ(ジョン・ズンペ)Johannes Zumpe (c. 1726 - 1790) の名が省かれることはないでしょう。彼こそがイギリスにピアノを普及させた一番の功労者であることは誰もが認めるところです。
ツンペはニュルンベルク近郊のフュルトの出身で、1750年代に家具職人としてロンドンにやって来ました。なお彼はゴットフリート・ジルバーマンの弟子とされることが多いですが、その根拠と言えば十二使徒の伝説でしかなく、おそらく事実ではないでしょう。チャールズ・バーニーによれば、ツンペは独立するまではバーカット・シュディのもとで長い間働いていたとされます。ツンペは1761年に独立しますが、初めのうち彼が手掛けていたのはチェンバロでもピアノでもなく、何故かイングリッシュ・ギター(金属弦のギターの一種)でした。彼の店は金のギターの看板で知られていました。
ツンペがピアノの製造を開始したのがいつなのかは不明ですが、現存最古の彼のピアノは1766年のもので、同年の楽器が4台知られています。
彼のピアノの第一の特徴は、ヴァージナルやクラヴィコードのような長方形のフォルムの「スクエア・ピアノ」であることです。これ以前の日付を持つスクエア・ピアノは尽く贋作であることが判明しており、ツンペが最初にこの形式を発明した可能性が高いです。
響板のレイアウトなどはクラヴィコードにそっくりです。強弱のつくチェンバロというよりは、響きの豊かなクラヴィコードといったほうがよいでしょう。音域は GG–f3 ですが GG♯ のキーはダミーです。
この個体は未修復で演奏不能ながらオリジナルの弦が残っており、低音域に巻弦を使用していたことがわかります。これもツンペの考案の一つで、巻弦自体は以前からありましたが、鍵盤楽器に使用されたのはこれが最初です。
そして肝心のアクションですが、これが大変シンプルなものです。
この「イングリッシュ・シングルアクション」と呼ばれるタイプの機構は、革のヒンジで繋がっているハンマーを、下からキーレバーに付いた突起(なぜか "Old Man’s Head" と呼ばれる)で跳ね上げるだけのものです。エスケープメントも何もありはしません。ダンパーはバネ仕掛けで上から押さえつける形式です。
このツンペのシングルアクションについて、クリストフォリ=ジルバーマンのアクションを簡略化したもの等と説明されることがありますが、系譜に連ねるのも烏滸がましいというもの。両者の機構にはほとんど共通点がなく、独立した設計に思えます。いっそ中世のドゥルチェ・メロスの復元案に近いでしょう。
しかし音量やダイナミックレンジを欲張らなければ、ツンペのスクエア・ピアノの音質は侮れないものがあり、そのチャーミングな音色は家庭用楽器としてギャラント音楽に相応しいものであったといえます。
そして何より安価でした。カークマンの一段鍵盤のハープシコードが1台50ギニーであるところに、スクエア・ピアノは16~18ギニーで買えました。後に中間レバーを追加したダブルアクションや、エスケープメントを用いたアクションも開発されますが、19世紀に入っても安価なスクエア・ピアノでは依然としてシングル・アクションを用いるものもありました。
ツンペのピアノの左側にあるレバーはダンパーを持ち上げるものです。当時はダンパーを解放した状態の響きが好まれて、むしろそちらがメインだったようです。1767年以降の楽器ではダンパーを高域と低域で分割し独立して操作できるようになって、左手をダンパーありで伴奏の響きを抑えた上で、ダンパーなしの右手で旋律を豊かに歌わせるようなこともできました。
1769年以降はフェルトを弦に接触させるバフ・ストップも加わり、これはダンパーなしならハープのような音色に、ダンパーありではピチカートのような効果が得られます。
ツンペ以前にもイギリスでピアノが全く知られていなかったわけではありませんが、散発的な報告にとどまり、珍品の域を出るものではなかったようです。
1764~5年にモーツァルト一家がロンドンを訪れた際のレオポルト・モーツァルトの手記や書簡にもピアノは姿を見せません。あまり知られていませんが、この父モーツァルトは自然科学や機械装置にも強い関心を持っていた人で、ロンドンでは最新の顕微鏡や望遠鏡などを買い込んでいます。そんな彼が新型の鍵盤楽器を見れば興味を持たなかったはずはないでしょう。1765年前半にはツンペのピアノが存在したとしても少数だったと思われます。
しかしながら1766年4月17日のロンドンの新聞『Public Advertiser』にはJ.C.バッハの『ピアノフォルテまたはハープシコードのためのソナタ集 Op. 5』の出版が告知されています。当然ながらこれはピアノを対象に含む出版楽譜としてはイギリス初のものです。
表紙を見てのとおり「Piano Forte」が大きくフィーチャーされており、この頃には既にイギリスでピアノ向け作品の需要が十分に見込まれる状況だったのでしょうか。ともかくもこの年以降スクエア・ピアノは急速に普及していったようです。ツンペは1768年頃までにギターの製造を止め、看板も「王妃の腕」に変更します(シャーロット王妃もツンペのピアノの愛好者でした)。しかしツンペはスクエア・ピアノについて特許を申請していなかったので、すぐに多くの同業者が模倣品の製造を始めました。それがいわゆる「十二使徒」です。
J.C.バッハの Op. 5 に収録されているソナタは2楽章か3楽章構成で、当然ピアノやフォルテの指示が散りばめられています。しかし作曲時にツンペのピアノを用いたかは疑わしく、《ソナタ 第4番 変ホ長調》では AA♭ が要求されますが、上述の通りツンペのピアノではこの黒鍵は見た目だけのダミーで使えません。
また《ソナタ 第6番 ハ短調》は平易ながらも立派な二重フーガを含むバロック式のソナタで、強弱の指示もなく、むしろチェンバロ向きの作品です。
そうはいっても大方はツンペのピアノに誂向きな曲集であって、とりわけ《ソナタ 第3番 ト長調》の第1楽章は、彼の得意とする軽快な伴奏に歌うような旋律をのせる「Singing Allegro」様式の最良の例といえます。これを聴けばモーツァルトがいかに彼から多くを学んだかは明らかでしょう。
モーツァルトは後にこの曲集の2、3、4番のソナタをチェンバロ協奏曲に編曲しています。
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