雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【20】

「ここのコーヒーは美味しいですな」

本庄氏はコーヒーを飲むと、椅子に深く腰掛けた。

「そうですね」

「さて」

「はい」

「本題に入りましょう」

「お願いします」

「その前に、ひとつ、よろしいですかな?」

「なんでしょう?」

本庄氏に限らず、勿体つける人というのは、どこにでもいる。そして、それは、答えを知っている人の特権だ。

こちらは答えを知らない。

圧倒的有利な立場というのは、人をあざとくする。本庄氏のあざとさに、僕は乗っかることにした。

「待つこと、我慢することというのは簡単なようで難しいものです。そう思いませんか?」

「そう思います」

「諺も多いですな。果報は寝て待て。石の上のも三年、慌てる乞食は貰いが少ない」

「急いては事を仕損じる、というのもありますね」

本庄氏は頷いた。

「急がば回れ。最近はなんでも効率化や生産性が求められます。工業製品はそれでも良いでしょうが、人と人との間にあることまでも、時間で換算するのは、どうなのでしょうなあ」

本庄氏は僕を見ていなかった。

「あなたは実に忍耐強い。待つことができる人と思います。待つということ、それはなかなか難しいことです。大変良い美徳をお持ちですな」

「待つべき時は待つ、ただそれだけです」

「なかなか殊勝なお心掛けですな」

本庄氏はコーヒーを一口飲んだ。

「実にうまい。コーヒーも、同様ですな。直ぐに飲みたい。しかし、抽出するのを早めて了えば、味を損ねてしまいますからな」

「はじめちょろちょろ中ぱっぱ」

「赤子泣いても火を消すな」

本庄氏は笑った。

「赤子の手を捻る、という言葉がありますが、あれは実に悪趣味ですな。赤子の手を捻るなど、とても人間の仕業とは思えませんな」

「仰る通りです」

「あれは、失われた風景です」

「今なんと?」

「写真の風景のことです。あの町は、この世に残っておりません」

「どういう意味でしょうか?」

「当時は未だ参謀本部の下部組織でしてな。陸地測量部と申しておりました。私がやっておったのは、全国を隈なく歩き、測量して地図を作成する、その繰り返しでした」

本庄氏はコーヒーを飲むとため息をついた。

「その写真の町は、G県のM市です」

僕は初めて手がかりを掴んだと思った。

「写真を撮った場所は、市の中心から山間に向かって走る県道のとある場所と思います。おそらく、××村の椙山酒店の前から撮ったのでしょう」

「そこまで、撮った場所まで分かるのですか?」

「写真というのはレンズの焦点距離で画角が決まります。そして、その縮尺や大きさ、角度などから、どの位置で撮ったのか推察できます。まあ、外れることはありますが、大体はわかります」

「すごいですね」

本庄氏は髭を撫でた。

「その場所は、実際に歩いております」

「そうなんですね」

「その酒屋には看板娘がおりましてな。一人娘で、当時、県庁に勤めておりまして、よく覚えております」

「一軒一軒覚えているのですか?」

「いや、なに、ちょっと懸想しましてな。あまりにも美しい娘さんでしたので」

本庄氏は笑った。

たぬきジジイだ、と思った。

「それで、失われた風景というのは?」

「ダムです」

「ダム?」

「左様。国土改造計画の中に組み込まれたその一帯は、ダムの底に沈んでしまったのです」

僕は言葉が出てこなかった。

折角掴んだ初めての手がかりが、掌からするするとこぼれ落ちていくようだった。

「土岐氏のことはご存知ですかな?」

「なんでしょう、その、ときしというのは」

「その地域を治めていた、昔の豪族、武将の一族です」

「いえ、存じ上げません」

「土岐は時と言いましてな。言い伝えによると、一族の中に、時を司ることができる者がいたとかいなかったとか」

本庄氏はコーヒーを飲み干した。

「不思議なのは、とっくにダムの底に沈んだ筈なのに、その写真は、その後の風景を月写しておることです」

「え?」

「ほれ、その右側の煙突。ダムに沈んだ時は建設中のままでしてな。勿体ないと言われておったのです。ところが、ほれ、煙突が完成しておりますでしょう」

僕は、テーブルの上に置いていた、写真をまじまじと見た。

女性の右側、煙突がふたつ、並んでいた。

「その写真は、ダムの底に沈まなかった町の、その後の写真と思われます」

本庄氏はコーヒーのおかわりを注文した。

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