まつろわぬ花のこと

本当は、ひとりぼっちで生きていけるほど強くないのに、時々ひとりになるのが好き。

まつろわぬの意味は、一言で言えば、従わない、不服従。

まつろわぬ民やまつろわぬ神などと言われる、古い言葉だ。

そこから転じて、すっくと屹立している、凛とした、一輪で咲いている可憐な花、という風に、僕は、花を表す表現として使っている。

たまに、ごく稀に、そんな花を見ることがある。

楚々として、たおやかな雰囲気を漂わせ、淑やかに咲いている。
しなやかで柔らかく、気品のある所作で、優雅に佇んでいる。

なんというか…乱暴で粗雑な男に目をつけられやすいのか、手折られたり、狼藉を働かせられて、たくさん傷ついている。

けれど、そんな傷は、花を貶めることなく、寧ろ、より美しさを引き立たせているようにも思うことがある。

それは表面上の傷だから、だろう。

本当の傷は、花の根っこ、土の下、誰も知らない、見たこともない、見ようともしない、深い所にあるように思う。

それは、花だけが知る、本当に癒して欲しい傷だけれど、花は決して言葉にはしない。

それは含羞なのかもしれない。

そんなことを言ったところで、わからないだろうという諦観なのかもしれない。

仮に知ったとしても、癒せないだろうという、可能性の遮断なのかもしれない。

僕は悲しくなる。

そうだとしても、泣きたくなる。

どうしてそれ程までに傷ついてしまったのだろう。

どうしてそれ程までに誰も信じられないと思うようになったのだろう。

どうして、それなのに、そんなに可憐で美しく、自分に厳しく、凛としているのだろう。

花守なんていらない。

花の言葉は拒絶だ。

良くわかる。

花守なんかに世話されたら、たちまち弱さが表に出てしまう。

理解しているなんて、訳知り顔で言われるのが、一番腹立つ。

誰も知るわけがない。誰も理解できるわけがない。

癒せることなんて、誰もできない。

そんな花の言葉は、決して言葉にならない言葉だと思う。

そうして、拒絶遮断されたことは、一度や二度ではないだろう。

誰よりもそれを望みながら、誰よりもそれを絶望して、それでも尚、蹲ることなく、たおやかに佇んでいる。

そんな花だ。

まつろわぬ花。

素敵に素晴らしく、泣きたくなるほど美しい花だ。

大抵、誰も手の届かない、崖の上に風に吹かれて一輪で咲いている。

時々、粗雑で乱暴な男に、好き勝手されて、荒され、何度も手折られたり傷つけられて、枯れそうになりながら、凛と咲いている。


本当は、ひとりぼっちで生きていけるほど強くないのに、時々ひとりになるのが好きな花だ。

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