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一閑斎 履歴・来歴の価値

 茶道との関係が深い京都の臨済宗の大徳寺。その90世、大林宗套より侘び茶の祖、武野紹鴎が頂いた「一閑斎」の号が筒に書かれている。松平不昧公の筆である。この茶杓の竹の節は手元にある。その意匠は、象牙の茶杓の作りのものだそうだ。中央に節をもってくるよりもオシャレである。

 たかが「茶杓」、されど「茶杓」。目立たないけど、無いと困る。

「侘び茶の祖」の武野紹鴎が作った茶杓なのであるから、価値があるに違いない。特に価値があると思える事が一つある。それは、この茶杓が持っている「来歴」であろう。つまり、生い立ちである。誰が作って、誰に与えられて、その後誰の手を経て、ここにあるのか。この茶杓の「履歴」は確かに、そんじょそこらの茶杓では辿ることのできない歴史をたどってきたのだと思う。そう思うと、たかが、「竹細工」ではあるが、「唯一無二」の「竹細工」であることは、理解できる。
 この茶杓に似たような事が、茶道の道具、一般に言えるのような気がしてきた。
 例えば、茶碗。一目見て、どこかの誰かのように、
「この茶渋が醸し出す眺め、いい〝景色〟になってますよね」
 とは、私には冗談としか思えない。それが何百万円もの値段が付いているなんて、もっと信じられない。それこそ、『この古臭い茶碗のどこにそんな価値があるのか。おかしいんじゃない?』と、思うのも当たり前だと思う。
 でも、若いカメラマンに聞くと、
「私は、いいなぁ、と感じます」
 と言う意見もある。
 確かにそう言う人もいるのだろうが、私にはちょっと……。
 それよりも長谷川等伯の「松林図屏風」や「楓図」(智積院蔵)の素晴らしさは、見ただけで感動できる。東山魁夷の絵も一目見て「素晴らしい!」と感じる。モネの「睡蓮」も好きだし、フェリメールの「真珠の耳飾り」も好きだ。
 でも、東京国立博物館に展示されていた「武野紹鴎の茶杓」は、一目見ただけでは、『好き!』という感情は湧いてこない。それでも、ここに展示されているのは茶杓の「来歴」の面白さによるものだと思う。茶道の茶碗も然り、茶釜も然り。なかなか一目見て「素晴らしい」という風には感じられないが、「来歴」を聞くと興味をそそられるものが多い。
 でも、国宝の大井戸茶碗『喜左衛門』は魅力的だと、じわっと感じる。
 同じように国宝の青井戸茶碗の「柴田」。元々は織田信長が所有し、戦功によって柴田勝家に賜ったことから「柴田」という銘が起こったと伝えられる茶器である。その「来歴」は置いておいても、決して嫌いでは無い。どこか惹かれる。
 どうも、私も少しづつおかしくなって来たのかも知れない。


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