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変わっ「てしまっ」たモスクワ

モスクワに行ってきた。実に4年ぶり。新しくなり、綺麗になり、便利になっていた。色々なものができていて、色々なものがなくなっていた。W杯があったからというのが大きいのだろうが、歩けば歩くほどに思い出が塗り替えられていく鮮烈な感覚。これが10年20年のブランクならまだ「そりゃそうだろうな」と諦めもついたのだろうが、4年である。同行していた友人(ロシア初訪問)に「ここにね!ピロシキ屋がね!あってね!!」と熱弁を振るっていたが、まあ伝わらなかっただろう。ぽけっとした顔で「へー」と答えるばかりだった。

それもそうだ。「ない」がデフォルトの人間に「ある」を示したところで、そちらの方が特殊状態だ。翻って、自分が4年前にぶらついていたモスクワだって、誰かにとっては驚きの対象だっただろう。「ある」のも「ない」のも、つくづく自分勝手な話である。

古きよき何かにロマンを感じ、自分のあずかり知らぬ変化に「変わっちゃった」というフレーズを使うのは勝手だが、住んでいる人にとっては街が便利に新しく変わっているんだから、よいこと。だろう。たぶん。偉そうに「てしまった」なんて使える立場ではない。
自分の見たものがそのままずっとあるわけでも全体に当てはまるわけでもないというのは前にも書いたが、それをあらためて実感させられた日々だった。

とはいえ、知っているものが知っている通りに残っているのは嬉しい。4年前と変わらない店構えの本屋で4年前と同じように散財してしまいましたとさ。この辺は少しくらい変わっていい気もする。ちゃんちゃん。


本とか買います。