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他者性の泡立つ世界を生きるということ

* 二項対立と脱構築

我々は世の中の様々な物事をなんとなく「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった二項対立で判断しています。二項対立の思考は世界をシンプルなものにしますが、その一方で世界の複雑さや猥雑さの中に隠れた豊かさを見過ごしてしまうことになります。そして人は時としてのその二項対立の枠組みから他人を非難したり自分を追い詰めたりします。

けれどもこうした二項対立もよくよく見ていけば、必ずしも一方が全面的に正しくて他方が全面的に間違っているとは限らず、その境界線はかなり曖昧だったりすることもよくあります。こうした世の中でなんとなくまかり通っている二項対立を根本から揺るがしていく知の技法がフランスの哲学者、ジャック・デリダの提唱した「脱構築」です。

このデリダのいう「脱構築」とはもともとはハイデガーのいう「解体」に由来します。この点、ハイデガーのいう「解体」の本質は、現在支配的になっている伝統を「破壊(否定)」するのではなく、あくまでその伝統の系譜を解き明かしていく点にあります。こうしたことから「脱構築」とは従来の二項対立を転倒ないし無効化する側面があると同時に、その二項対立の背後にある伝統の系譜に遡り、その伝統が隠蔽するものを明るみに出していく側面を持つ技法であるといえます。

* パロールとエクリチュール

例えばデリダの初期の代表的テクストである「プラトンのパルケマイアー(1968)」では「パイドロス」を中心としたプラトンの対話篇が分析され、ここからプラトン以降の西洋哲学(形而上学)における伝統である「ロゴス中心主義(音声中心主義)」が取り出されます。

この「ロゴス中心主義(音声中心主義)」においては発話者本人が現前して直接語りかける「パロール」こそが真理を誤謬なく伝える特権的なメディアであると位置付けられ、発話者本人が不在の「エクリチュール」とは真理に誤謬を招きいれる危険があることから、あくまでもパロールの補助的なメディアとして位置付けられています。

つまり「ロゴス中心主義(音声中心主義)」とは「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」の二項対立におけるパロールの優位を強調する立場です。そして、デリダによれば、この「ロゴス中心主義(音声中心主義)」は、表音文字であるアルファベットの優位性と結合し、今日における「西洋中心主義」の温床としても機能しているとされます。

確かにアルファベットはまぎれもない表音文字であり「音声から文字へ」という動きは否定し難く、一見パロールの優位性は動かし難いように思えます。

ところがその一方で、この「パイドロス」においてプラトンがパロールを「魂の中に本当の意味で〈書き込まれる〉言葉」とか「それを学ぶ人の魂の中に知識として〈書き込まれる〉言葉」などと表現している点にデリダは注目します。つまりここでプラトンはパロールの優位を力説するその最中に図らずもパロールとはエクリチュールの一種に過ぎないことを迂闊にも自ら告白してしまっているわけです。

そして、この「パイドロス」で起こっている事態は単なる言葉の綾や隠喩などではなく、デリダは近代ではルソー、現代ではソシュールのテクストなどでも典型的な形で反復されており、彼らはいずれも極めて「ロゴス中心主義(音声中心主義)」からエクリチュールの価値を貶めるその一方で、パロールの本質を記述する際に決定的な仕方でエクリチュールのモデルに依拠していると指摘します。

こうしたことから、デリダはこのパロールの中にあるエクリチュール性をデリダは「原-エクリチュール」と名付け「パロール/エクリチュール」の二項対立におけるパロール優位を脱構築することになります。

* 構造と力

このようにデリダは自覚的に「脱構築」を前面に押し出した思想家でしたが、とりわけ現代思想の分野ではデリダに限らず広く「脱構築的な思考」が用いられています。その例として、ここでは1980年代に一世を風靡した「ニュー・アカデミズム」の起爆剤となった浅田彰氏の名著「構造と力(1983)」の序文を見てみましょう。

「いま大学という場で学ぶべき知とは何か」を問う同書の序文「序に代えて《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み--千の否のあと大学の可能性を問う」では、その冒頭で大学における「文・理学部中心/法・医学部中心」という歴史的変遷から「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インスゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」といった二項対立を抽出した上で、重要なのは、この二項対立に「決してまともに答えないこと。できれば問題そのものをズラせてしまうこと」であり、この二項対立のいずれの選択も「極めて貧しい選択」であると述べられた後にあのあまりにも有名な一文が現れます。

ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。このことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探求の道」に励んでみたり企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラけることによってそうして既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。

その上であえて言うのだが、評論家になるのも良くない。〈道〉を歩むのをやめたからといって〈通〉にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。

要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身を晒しつつ、しかも、批判的姿勢は崩さぬことである。対象と深く関わり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。言ってしまえばシラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。

先ほどの文脈で言うとどうなるか。醒めた目で知を単なる手段とみなすことはまず退けられる。そもそも、あなたは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは「どうせ何にもならないけれど」と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。

浅田彰「構造と力」

そして、ここから同書はそのパースペクティヴを急拡大し、これから同書において問おうとする「構造主義」と「ポスト構造主義」の見取り図をざっくりと素描していく中で「大学の知」を近代社会における「整流器」と位置付けて、冒頭で示した「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」という二項対立がいかに不毛な問題設定であるかを論証し、次のように述べます。

教会の説教壇の如き絶対の高みから大鉈を振るうのではなく、寿司屋のカウンターに魚の切身を並べるようにパラダイムの数々を陳列してみせるのでもない。恐るべき粘着力を持つ近代のドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。始原なし目的なしの過程の一契機としての切断。それこそ、近代に絡め取られた知の唯一の可能性であり、大学の生み出しうる最大の事件であり、いま《知への漸進的横滑り》を開始しようとするあなたに先程来提案してきた「方法ならざる方法」なのである。

浅田彰「構造と力」

ここで示された「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」という二項対立というのは、もっと俗っぽくいうのであれば「自己啓発セミナー/就職予備校」の二項対立です。要するに、ここで浅田氏は大学における真の知とはこうした二項対立を脱構築したその先で「シラケつつノリ、ノリつつシラケること/方法ならざる方法」によって初めて産み出されるのであると主張しているわけです。

* 脱構築の使い方

現代思想の気鋭の研究者として知られる千葉雅也氏は昨年大きな反響を呼んだ「現代思想入門(2022)」において「脱構築」の手続きを次のように説明しています。

①まず、二項対立において一方をマイナスとされる暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるだけではありません。

②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。

③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。

千葉雅也「現代思想入門」

普段、我々がほとんど無意識で使用する二項対立的な思考の背景には「本質的なこと/非本質的なこと」といった二項対立があります。常識的には「本質的なこと」が「非本質的なこと」よりも重要であることは自明なものでしょう。しかし「本質的なことが重要である」というこの常識に対してデリダは「非本質的なことの重要性」を徹底的に思考しました。

この点、デリダによれば二項対立におけるプラスの項は「本来のもの」「本物」「オリジナル」であり、もっといえば「直接的なもの」を意味することになります。すなわち「本質的なこと」とは、ある基準点にとって「直接的なもの」であるということです。

そして、この「直接的なもの」を哲学用語では「現前性」といいます。これに対して「間接的なもの」が「再現前」です。これは要するに「ある基準点に近いか遠いか」ということです。つまり、先ほどの「パロール/エクリチュール」の二項対立とは、この「本質=直接的な現前性」「非本質=間接的な再現前」の二項対立に他なりません。パロールは直接的だから真意を伝え、エクリチュールは間接的だから誤読されるということです。

こうしたことから、千葉氏は「パロール/エクリチュール」の二項対立(とその脱構築)はある種の「寓話」として、例えば「自然/人工」とか「主体的決断/優柔不断」といったいろいろなケースに当てはめることができるといいます。

* 他者性の泡立つ世界を生きるということ

では、こうした脱構築的な考え方を引き受けた生き方とはどのようなものでしょうか。

この点、大きくいって二項対立でマイナスとされるのは「エクリチュール(非本質=間接的な再現前)」としての「他者」の側です。脱構築の発想は余計な「他者」を排除して自分が揺さぶられるずに安定したいという「同一性」に介入します。自分が自分に最も近い状態でありたいということ、すなわち自己の同一性を揺さぶるということです。これに対して、デリダの脱構築は「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という同一性の鎧を破って他者の側に身を開こうということを言っています。

これは、日常を他者性が泡立っているサイダーのようなものとして捉える感覚です。一切の泡立ちのない透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのヴィジョンである、と氏は述べています。

もちろん、人は秩序を求めて何か一方的な価値観を主張しないといけない場面もあるでしょう。それに対して、別の他者的な観点があり、この両者が押したり押し返されたりというのを繰り返すような状態が続きます。もとより、我々はやはり何かを決断しなければ生きていけません。こうした意味でデリダ的な脱構築だけを徹底して生きようとすることはできないでしょう。

けれども、全ての決断はそれでもう何の未練もなく完了といことではなく、常に他者性への未練を伴っているのであり、そして、このような未練こそがまさに他者性への配慮であるということです。すなわち、我々はその都度の決断を繰り返しながらも、その未練の泡立ちに別の機会でどう答えるかということを考え続ける必要があるわけです。

このように脱構築的に物事を観ることで、偏った決断をしなくて済むようになるというよりも、我々は常に偏った決断をせざるを得ないけれども、そこには他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けていくことができます。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思う、と氏は述べています。

ここで思い出すのがデリダがかつて「法の力」という講演で打ち出した「脱構築とは正義である」という有名なテーゼです。ここでデリダは様々な事象を「合法/違法」といった二項対立で記述する「法」は本質的に脱構築可能だけれども、こうした「法」の外にもしも「正義」が存在するのであれば、それは脱構築不可能であり、同様に脱構築それ自体が存在するのであれば、やはりそれは脱構築不可能であり、ゆえに脱構築とは正義であるという趣旨のことを述べています。

しばし従来、脱構築に対しては秩序を揺るがす退廃思想であるとか、あるいは理想を否定するニヒリズムに他ならないといった批判が向けられてきました。けれども、これらの批判はいずれも脱構築の半面しかとらえていないと思います。

確かに脱構築とは「決定不可能の思想」という側面も持っていますが、その一方で「決定の思想」という側面も持っています。そして、デリダのいう「脱構築とは正義である」というテーゼの根底には、千葉氏のいう「他者性への未練」へ意識を向けていく「優しさ」があるように思えます。こうした意味で真に脱構築な思考を引き受けていく生き方というのは様々な他者性の泡立つこの世界において、分かり合えないということを分り合うような生き方であり、つながり合えないところで手をつなぐような生き方なのではないでしょうか。







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