哲学の練習帳

哲学、心理学、社会学などで気になったことや役に立ちそうなことのざっくりしたメモ書きです…

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哲学、心理学、社会学などで気になったことや役に立ちそうなことのざっくりしたメモ書きです。よろしくお願いします。

最近の記事

『存在と時間』から遠く離れて

*『存在と時間』という未完のプロジェクト20世紀最大の哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーの主著『存在と時間』は刊行後、国内外に大きな反響を呼び起こしました。しかし同書はもともと上下巻に分けて刊行されるはずでしたが、実際に刊行されたのは上巻のみとなっており、結果、同書が本来の目標として掲げていた「存在の意味」の解明も実際には果たせないままで終わっています。 周知の通りハイデガー哲学の根本課題は「存在の問い」にあります。この「存在の問い」には第一に「存在」の根源的な

    • 動物化する公共圏

      * 哲学の使命とは「会話」を守ること?西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。ルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に

      • 郵便空間から訂正する力へ

        * 訂正可能性--『存在論的、郵便的』の核心部現代を代表する批評家/哲学者である東浩紀氏が1998年に世に放ったデビュー作『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。同書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ的脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって

        • 一般意志と訂正可能性

          * ルソーの社会契約と一般意志フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーが1762年に公刊した主著『社会契約論』は「一般意志」の理念を提出し、フランス革命に決定的な影響を与えた政治思想の古典として一般には理解されています。しかしこの著作は実際はかなり謎めいた側面を持っています。 ルソーの思想は一般には個人の自由、感情の無制約は発露を称揚するものとして知られています。例えば『人間不平等起源論』では自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳い上げる所から始まり『エミール』では子

        『存在と時間』から遠く離れて

          人工知能民主主義と一般意志

          * シンギュラリティと人工知能民主主義2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代

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          「正しさ」と「誤り」のあいだで--観光客・家族・訂正可能性

          * 動員の革命とポピュリズム「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及

          「正しさ」と「誤り」のあいだで--観光客・家族・訂正可能性

          反応しないということ--ブッダの教えに学ぶ心の使い方

          * ブッダの発見した四つの真理我々の日常はしばし何かへの執着とか何かへのイライラとか何かへの不安などといった諸々の感情に支配されることが多いでしょう。こうした我々が生涯で体験する様々な憂苦懊悩を古代インドの賢者ブッダは「八つの苦しみ」として定義しました。 ここでいう「八つの苦しみ」とはすなわち「生老病死」の四つの「苦しみ」に「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌いな人に出会ってしまう苦しみ)」「求不得苦(求める物が手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(欲望が燃え盛

          反応しないということ--ブッダの教えに学ぶ心の使い方

          空間的内部における時間的外部

          *「走る」ことと「書く」こと今年6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』を上梓した村上春樹氏は熱心な市民ランナーとしても知られています。時に1980年代初頭、当時30代前半だった村上氏はそれまで経営していたジャズ喫茶「ピーター・キャット」を他人に譲り渡して専業作家となり、初の長編小説となる『羊をめぐる冒険』を書き上げた後に体調管理と禁煙を兼ねて「走る」ことを始め、以来、今日に至るまで世界各地で行われるフルマラソンやトライアスロンの大会に出場し続けています。氏はかつて『走ること

          空間的内部における時間的外部

          近代的有限性と古代的有限性--ラカンとフーコーのあいだから

          * 本能と欲動 人間はある意味で「過剰」を抱えた生き物であるといえます。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程ということになります。 この点、精神分析の世界ではこのような過剰な認知エネルギーを「欲動」と呼びます。人間の根底にはその一方で哺

          近代的有限性と古代的有限性--ラカンとフーコーのあいだから

          他でもありえた可能性として--「社会」はいかにして可能となるか

          * 社会学の基本問題と構造-機能主義 ある学問が成立したといえるにはその学問固有の主題が必要となります。社会学においてそれは「社会秩序はいかにして可能か」という問いです。ここでいう社会秩序は現実に成立している社会秩序でもいいし、これから作ろうとしている可能的な社会秩序でもいいし、あるいは過去にあった社会秩序でもいいでしょう。とにかく何らかの意味での社会秩序がなぜ可能なのかということを理論的、実証的に研究するというスタイルを広い意味で共有しているのが社会学であるということにな

          他でもありえた可能性として--「社会」はいかにして可能となるか

          資本主義とアソシエーション--よみがえる『資本論』

          * なぜいま『資本論』かドイツの経済思想家、カール・マルクスの主著『資本論』は当時人々の暮らしを激変させていた「資本主義」のメカニズムを徹底的に解析し、その矛盾や限界を明らかにした名著です。しかしソ連崩壊以降、マルクス主義は弱体化し『資本論』を読もうとする人も一昔前に比べると随分と少なくなりました。その一方で資本主義はさらに強大化し「新自由主義(市場原理主義)」という名の下に世界中を席巻し、その結果として金融危機、経済の長期停滞、貧困やブラック企業、気候変動の影響による異常気

          資本主義とアソシエーション--よみがえる『資本論』

          ポスト・ヒューマニズムの時代におけるヒューマニズムの再設定

          * ポスト・ヒューマニズムの時代 14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきましたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していました。 ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自

          ポスト・ヒューマニズムの時代におけるヒューマニズムの再設定

          データベース的動物から再び「人間」へ

          * オタク系文化とポストモダン 人は世界に棲まう上でその生を基礎付けるため何かしらの「物語」を必要とします。ここでいう「物語」とは人が世界を理解するための媒介であり生の意味を提示する道標をいいます。かつて社会共通のロールモデルとしての「大きな物語」が存在していた時代においては多くの人が「大きな物語」に遡行する事で自らの「物語」を基礎付けていました。ところが「大きな物語」が崩壊した現代においては、人はどのようにして自らの「物語」を生成するのかという問いが生じることになります。

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          自傷的自己愛と承認の時代

          * 自傷的自己愛とは何か ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は、近著「『自傷的自己愛』の精神分析」において思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。 斎藤氏は精神科医として30年以上に及ぶ臨床経験に基づき、往々にして「ひきこもり」の当事者は「困難な状況にあるまともな人」であるがゆえに「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまっているといい、さらには

          自傷的自己愛と承認の時代

          他者性の泡立つ世界を生きるということ

          * 二項対立と脱構築 我々は世の中の様々な物事をなんとなく「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった二項対立で判断しています。二項対立の思考は世界をシンプルなものにしますが、その一方で世界の複雑さや猥雑さの中に隠れた豊かさを見過ごしてしまうことになります。そして人は時としてのその二項対立の枠組みから他人を非難したり自分を追い詰めたりします。 けれどもこうした二項対立もよくよく見ていけば、必ずしも一方が全面的に正しくて他方が全面的に間違っているとは

          他者性の泡立つ世界を生きるということ

          自己への技術におけるアイロニーとユーモア

          * 自己反省の欲望 一昔前に自分探しの旅というのが流行ったように、人は基本的に「本当の自分」というのをを知りたいという欲望を持っています。そしてこの「本当の自分」をめぐる欲望は「(本当の自分は)こんなものじゃない」とか「(本当の自分は)こんなものなのか」とか「(本当の自分は)こんなものであってたまるか」という「自己反省の欲望」として表出します。 もちろん、いくら探し回ったところで「本当の自分」などというものは実体として存在しないわけですが、我々はこのありもしない真理を延々

          自己への技術におけるアイロニーとユーモア