見出し画像

自傷的自己愛と承認の時代


* 自傷的自己愛とは何か

ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は、近著「『自傷的自己愛』の精神分析」において思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。

斎藤氏は精神科医として30年以上に及ぶ臨床経験に基づき、往々にして「ひきこもり」の当事者は「困難な状況にあるまともな人」であるがゆえに「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまっているといい、さらには「ひきこもり」の人々ばかりではなく、メンタルな問題を抱える若年層には「自分が嫌い」な人が多いように思うと述べています。

こうしたことから氏は「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べています。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして氏は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。

だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。

* 承認の時代

この点、斎藤氏は同書において戦後の精神史を「神経症の時代(1960年代)」「統合失調症の時代(1970〜80年代中期)」「境界例の時代(1980年代後期)」「解離の時代(1990年代後期)」「発達障害の時代(2000年代後期〜現在)」の五つに区分した上で「解離の時代」以降に前景化した「承認依存」「コミュ力偏重」「キャラ化の進行」と自傷的自己愛との関連性を論じています。

ここでいう「解離」とは端的にいえば心における時間的・空間的な連続性が切断されることであり、強いトラウマやストレスなどから心を守るための心理的防衛機制の一つです。

この「解離」による精神疾患が「解離性同一障害(多重人格)」と呼ばれる1人の身体を多数の人格が共有するような状態です。この疾患において生じる人格の数は数人から時に数十にも及ぶ場合があり、それぞれが異なった名前や記憶を持ち、年齢や性別も様々だったりします。

そして氏は「解離の時代」とは「承認の時代」でもあると言います。なぜならば「承認」において鍵を握っている「キャラ」という概念が極めて解離現象と親和性が高いからです。

* 承認依存とコミュ力偏重

それまでの「境界例の時代」における若年層の不安は「自分が何者であるか(自分探し)」という「実存不安」が多くを占めていました。けれども「解離の時代」においては、それまでの「実存不安」と入れ代わるようにして「承認不安」が前面に出てくるわけです。

これは望ましい自己イメージが「本当の自分」から「他者から承認される自分」にシフトしたことを意味しています。すなわち、現代では若年層を中心にかつてないほど自身の価値を他者からの「承認」に圧倒的に依存しているということです。このような「承認依存(つながり依存)」の背景にはスマートフォンやSNSの普及といった通信環境の変化が大きく関わっています。

この「承認依存」において最も価値があるのがSNSの「いいね!」のような客観性や希少性といった見かけ上の価値を与えてくれる「集合的承認」であると氏はいいます。この集合的承認は極めて流動性が高く、今得られている承認もいつ失うかわからないという不安と紙一重であり、こうした承認不安が承認依存の根底にあるわけです。

そしてこうした「承認依存」は若年層の対人評価の基準をほぼ「コミュニケーションスキル」に集約される事態を生じさせました。2000年代以降の顕著な傾向として「コミュ力」「KY」「コミュ障」「非モテ」「ぼっち」「リア充」「陽キャ」「陰キャ」「パリピ」といったコミュニケーション関連の流行語が急増したことはよく知られるところでしょう。

* キャラとしての承認

そして「承認依存」と「コミュ力偏重」という二つを媒介するのが「キャラ」です。ここでいう氏のいう「キャラ」とは端的にいえば、ある個人における一つの特徴を戯画的に誇張した記号のことであり、一旦キャラとして認識された個人は、以後ずっと「キャラとしての同一性」を獲得する/させられることになります。

いわゆるスクールカーストの成立には「キャラ」が重要な役割を果たしていることがよく知られています。コミュ力が高い「陽キャ/モテキャラ」は同水準のコミュ力のキャラ同士でグループを形成し、これがカースト上位層を形成し、一方で、コミュ力の低い「陰キャ/非モテキャラ/いじられキャラ」は問答無用でカースト下位層に位置付けられます。つまり、クラスにおいては個人のキャラ設定とカースト上の位置付けがほぼ同時に決定され、しかも両者を決めるのはあくまでクラスの「空気」であり、だからこそ誰もその決定には逆らえないということになります。

それゆえに当事者は自分のキャラに違和感を覚えたり、あてがわれたキャラを演じ続けることに疲れたりもするが、与えられた「キャラ」を降りることは基本的に難しいわけです。

ただしその一方でキャラにはコミュニケーションを円滑にする機能があります。相手のキャラが分かればコミュニケーションのモードも自動的に決まり、その後はそのモードで会話を続ければよく、また互いのキャラの相互確認だけで親密なコミュニケーションが取れているかのような気分にもなります。その意味でキャラはある空間内でその人の「居場所」を与えてくれるという機能があります。

さらにいえば「キャラを演じているに過ぎない」という自覚はキャラの背後にある(と想定される)「本当の自分」の存在を信じさせ、また保護さえしてくれます。仮に誰かに傷つけられたとしても所詮それは演じられたキャラなのであり「本当の自分」とは関係ないと割り切ることができるでしょう。

こうしたことから氏は「承認依存」とは実は「キャラとしての承認」への依存を意味しているといいます。ここでの「承認」は「本当の自分を肯定してほしい」という欲望とは異なり「キャラとしての自分を受け入れてほしい」という欲望に近いように思われるということです。こうしたある種のコミュニケーションのモードが凝集された擬似人格ともいえるキャラの特徴は、多重人格の交代人格の特徴と通じる点があるでしょう。

* 自傷的自己愛=キャラとしての嫌悪?

そして、氏によれば、こうした「キャラとしての承認」の裏返しである「キャラとしての嫌悪」が自傷的自己愛であるということです。つまり、自己愛そのものは「本来の自己」に向けられているにもかかわらず、自分に与えられた「キャラ」は受けれ難いため、そうしたギャップから「キャラとしての自分」を徹底的に批判するのが自傷的自己愛ではないかということです。

なお、氏は近年「発達障害」がよくも悪くもクローズアップされるその背景にも「承認依存」「コミュ力偏重」「キャラ化の進行」があるといいます。もっとも、その一方で発達障害のステレオタイプは「キャラ」としては立っており、うまく居場所を見つけることができれば、能力を発揮できたり愛される存在になり得たりもするでしょう。

こうした意味で「発達障害」という言葉は両義性を孕んでいます。けれども自傷性自己愛においてはしばしこの「発達障害」という言葉も自分自身を否定するためのレッテルとして用いられることがあります。

* 自傷的自己愛と自己心理学

そして、斎藤氏は自傷的自己愛をどのようにして健全な自己愛に変えていくかを考える上で米国の精神分析家、ハインツ・コフートの自己心理学を参照します。

ここでコフートのいう「自己」とは空間的に凝集し時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいい、この自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っているとされます。つまり、子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。

そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。ここでいう「自己対象」とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。

まず「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」といいます。次に「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」といいます。

そして、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ自分と似たような自己対象を「双子自己対象」といいます。

こうして、さまざまな自己対象から多くの機能やスキルを取り込むことで自己の構造は複雑化し、安定したものに変わっていきます。この安定状態をコフートは「融和した自己」と呼びます。そして、この「融和した自己」は一つのシステムとして周囲の他者と関わりながら、さらに他者の機能やスキルを吸収し、さらに安定度を高めていきます。

コフートによれば、自己愛の発達のもっとも望ましい条件は青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続することです。こうした対象が欠けたままでは自己愛を健全に成熟・成長させることが困難になるからです。この点、斎藤氏は「自立とは依存先を増やすこと」という熊谷晋一郎氏の名言を引き、自己愛の成熟とは良き自己対象を増やすことであるといいます。

そして、おそらくその依存先=自己対象とは決して人に限らず、モノであったりライフワークであったりでも良いはずです。こうした意味で自傷的自己愛を拗らせないために最も必要なスキルとは、言ってみれば「しなやかに依存する能力」なのかもしれません。


【関連】自己心理学的寓話としての「ぼっち・ざ・ろっく!」




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?