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削ぎ落すこと、削ぎ落したくないこと

「○○への思い」というテーマで200字で書くという課題があった。
200字なんてあっという間だし簡単に書けると思っていたが、これが思いのほか難しい。
そのあっという間に書けるからこその難しさがあると思う。
何を書くのか、書かないのか、神経を集中させる必要がある。
簡潔にまとめたつもりで文字数カウントすると、最初は400字以上あってめちゃくちゃオーバーじゃん、と思いながら何度も書き直しては文字数をカウントするものの、200字後半で筆が止まってしまった。
うーんと首をひねりながら、改めて「わたしの一番伝えたいことは何か」と自分に問うた。

そうしたら伝えたいことが意外とたった1つのことなのだと気づく。
周辺にあることばがやけにまどろこしかったり、不必要な接続詞や助詞があったり、説明的な文章が長かったり。文章に雑音が多いということがわかる。
ただやみくもに字数を減らすのではなく、伝えたいことをより引き立てるために削ぎ落としていくと、案外200字でも伝えきれるものだ。
しかしこれではまったく不十分なこともあるだろう。
だが制約されることで伝えたいことが鮮明になるのだ。
削ぎ落とすという思いきりは時に必要で、削ぎ落とすからこそ見えるものがあると思った。


一方で削ぎ落したくないのが感情だ。
たった一つの事実は変わらないが、それに対して抱く感情というものはこの世に二つとして存在しない特別なものだ。似た考えを持った者同士はいるだろう。だがそこにたどり着く道筋は、無数にある。

本来感情は見えないもので、吐露しなければわからない。
わたしはどちらかというと感情を出すのが苦手だった。
誰かを嫌な思いにするかもしれないとか、そんなこと思うのとか、人と違ったらどうしようとか、自分を見透かされそうで怖かったのだと思う。
特に怒りという感情を、特に職場という場所で出してこなかったのだが、あまりに腹が立ち、「人のことを何だと思ってるんですかね!」とチームメンバーの前で言うと、「○○さん(わたし)が怒っている!安心するわ!」と言われた。(笑)

新しいチームになって数か月経ったぐらいだったので、少しだけ距離が近づいた気がした。
感情というものは時に人同士の分断を引き起こすこともあるだろうけど、結びつけてくれるものであるのだと実感した。

また発っせられたことばだけをなぞっても、その奥にある本当の想いを汲み取れたわけでもないのだとも、どこかでわかっている。
だからこそ相手のことばだけを鵜呑みにしたくないし、してはいけないと思っている。時に信じ込みたくなったり、受け止めすぎてしんどくなってしまうこともある。
でもことば以上のことばや想いを想像するということも削ぎ落したくないなと思うのだ。


「聞く」っていうのは、
もうほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。

「言う」人は、聞かれたいから言っているんだからね。
よく「聞く」人と、いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど開いていくものなんだ。
(中略)
ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。

「ボールようなことば。」
糸井重里

これは糸井重里さんの「ボールのようなことば。」という本の中にあった一節だ。

目の前にいる人に対して真摯に「聞く」ということを続けていると、その先にいけるのかもしれない。
ことばを超えることは容易なことではないけど、そういう姿勢であろうとするということがまずは大切なんだろうと思う。

「聞く」ということをわたし自身大切にしてきたつもりだし、
「言う」より断然「聞く」ことを得意としてきた。
でも「言う」ことも少しずつだけどやってみている。「言う」側にいくから「言う」人の気持ちもわかる気がする。

わかり合えないこともあるかもしれないけど、でもわかり合いたい。
そんな純粋な思いを大切にしあえる関係性を築いていきたいなと思う。




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