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二度目の上京

年が明け、2月になり、立春を迎えた。
体内時計の進み方は、ぐっと早くなった。

東京に戻ると決まってから、休みの日が久しぶりに会う友達との約束で埋まっていく。
社会人になっても、平日の夜に友達と晩ご飯を囲むことができるとようやく知った。

電話やラインでも変わらず話していたはずなのに、たった2時間目の前にいるだけで、グングン深まって、頭が追いつかなくなるくらいに、対面で会話することの刺激の強さに目がくらむ。

それくらい、私が会いたかったひとたちは、面白くて刺激的で頭の回転が早く、何よりも思慮深い人達だったと思い出して、そういう人が集まってるのが東京だよなとも思い直した。

好きな人達と会って話す度に、満たされた気持ちにほんの少しの寂しさを感じて帰路に着く。

私が自分のことに必死になっていた間、当然皆も必死に生きていて、どんどん取り巻く環境や肩書きは変わっていって、その流れはこれからもきっと止められなくて、その答え合わせが少しだけ淋しくて。

でもそうやって色んなものが変わることに戸惑う私を見て、皆口を揃えて「変わらないよ」と笑ってくれる。変わらずにこれからも会えるし、これからもたくさん話せるし、何も変わらないんだよ、と。

友達とか何とかいう関係性の、名前の見方ばかり気にしていたのは私ばかりで、その実、どうやらもっと深く安心していいつながりのことらしい。
その事が嬉しいから、楽しかった!という気持ち多めで手を振って別れるのだと思う。


でも本当は、まだ、よくわからない。というか多分自信が無い。

いつもそうやって少し先を皆が歩いているようで、また置いてかれちゃうのかな、と不安になる。

せっかくレベルアップしたと思っていたのに、当然同じように皆もパワーアップしてる、むしろわたしには想像もつかないルートを開拓していて、マリオの裏ルートを知るようなことがザラにある。

そもそもの街の特性がSNSを可視化したような世界なので、人と比べずに生きること自体が難しいこともあるけれど、
もはや世界スケールで、あぁ本当にそんな生き方できるんですね、という選択をひょいっと取っていくのだ。

次のステージ、次のステージと1人ずつが進んでいる。
階段は1段上がればまた1段難しい問いが投げかけられる。

悔しいと思えたら射程圏内。同じ土俵に立っている。そんなふうに思えたら。背中が遠く、手を伸ばすのは、ただの置いてけぼりだ。

でもその不安や淋しさが私の重い腰をあげる原動力になっていることも、また確かなのだ。


まさに天気のいい日にカーテンをバッッと開けられて、家の外に引っ張り出されるような感覚。眩しくて清々しい。圧倒的なエネルギー。

それが私が東京を離れ、地方に住んだ時に一番欲した東京住みの友人達のもつ刺激だったかもしれない。

のんびりマイペースに文人的生き方を好む(生き方だけでいえば余程地方の方が性分に合う)私という人間が、どれくらいこの刺激に耐えられるのかと思いつつ、ライフステージの移り変わり激しい20代後半をここで目の当たりに出来ることは楽しみでもある。

"人間は20代に出会ったものがその後の人生の広がりの基になる"

よく目にするけれど、それは自分自身の事だけでなく、周りの人も等しく同じなので、彼らがどんな人と出会い、どんな風に生きることを決め、感じ考えるのかを聞くことは、本を読むのと同じかそれ以上にまざまざと自分の人生の数倍広い世界に触れられることになるのだ。(痛みも伴うけど)

そういう意味で、浪費覚悟であらゆる機会を掌握していく場所としてこんなにアクセスの良い場所は無い。


何も分からないまま、色んな人と好きに出会ったのが大学生の1度目の上京。

清濁併せ呑むような激流に、あの時はなにも得られてない、むしろ全部自分のアイデンティティは流れてしまったとすら思っていたけれど、4年間を振り返るとそこにたくさん芽が出ていたことにようやく気づいた。

ならば2度目の上京はもっと自分の好きで大切な人と、好きを深めるアクセスポイントにピンポイントで出会いに行く。なるべく濁流は避けながら。ときどき寄り道をしながら。

知っているから会いに行ける、知っているから広げに行ける。知らないから興味が持てる。不足を誂えるのではなくて、満ちる喜びを増やしていく。そうやってこのダンジョンを軽やかにライドしたいと思っている。

蔵前 封灯にて。偶然見つけたには物語が過ぎる場所

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