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映画と車 痕跡の制御できなさ

『デス・プルーフ』

 クエンティン・タランティーノの『デス・プルーフ』(2007)はカーアクション映画の傑作である。本作でタランティーノは撮影監督も兼任しているが、監督印のいわゆる無駄話をワンカットでとらえたり猛スピードで走る2台の車と並走したり、それまで映画趣味に溢れた脚本と演出で評価されていた彼のキャリアは本作によって技術面での才能を開花したと言っても過言ではない。特にクライマックスのカーチェイスはその後作られたカーアクション映画と比較しても未だに最高峰であるし、タラが参考にしているであろう70年代前後のカーアクション映画と比べても真似事で終わらず、当時のカースタントを──良い意味で想定外に──現代の技術により撮ってしまったことが功を奏したように思われる。車のボンネット上に縛られたまま衝突を受けるゾーイ・ベル(ゾーイ・ベル)が誘うサスペンス、逃げきったと安堵するスタントマン・マイク(カート・ラッセル)の横顔奥の土手から現れるダッチ・チャージャーの存在感、そしてカーアクションという名の運動。どこをとっても最高の出来でありこれを観た後ではCGによるカーアクション映画を楽しむことは難しくなったが、筆者がこの実写カーチェイスにおいて最も高揚をしたのは、車と車の衝突、カークラッシュであった。

車体の痕跡

デヴィッド・クローネンバーグ『クラッシュ』(1996)

 アクションスターやスタントマンによる格闘術を用いた殺陣、トム・クルーズによる神業スタント、マイケル・ベイ作品の爆発、クリストファー・ノーランによる巨大装置や建造物の再現、現代のCG映画に対するこうした反発は、視覚と運動の芸術である映画の本質を保護するという一面においても価値ある意識である。一方で実写撮影は危険が付き物で安全対策は厳重に取る必要がある。対人アクションに関して、素人の殴り合いもスタントマンによる格闘術も対戦相手の安全を考慮して撮影が進行することは想像に難しくない。劇中生じる打撲創や人体破壊は映画美術による再現であることも言うまでもない。カースタントにおいても、プロドライバーの起用から安全性を考慮した車内改造に至るまであらゆるリスクに備えて映画作りは進行している。
 さて、ここで対人アクションとカーアクションを並べたが、共通した配慮の対象として上げられるのは人間である。しかし、前者になく後者ではどうしても配慮できないものが存在する。それはカークラッシュの痕跡ではないだろうか。勿論、車に対する配慮は行われるだろう。車が大きな傷を追えば炎上を招きドライバーが死に至ることがある。しかし、車と車、または車と物が衝突するシークエンスにおいて生じて欲しいボンネットの凹み具合は実写において再現することは不可能ではないだろうか。ここにカーアクション映画、具体的にはカークラッシュ特有の映画的特徴を見出す。

映画の"制御できなさ"

 カメラの前の現実を利用した芸術である映画の”制御できなさ”といえばスピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)が記憶に新しく、場合によってそれはアクシデントと化したり観客の解釈に齟齬を生むこともあれば、反対に神がかった運動をとらえる。カメラの前の現実を自由に構成することが可能なCGを用いた近年の映画は、そうした”制御できなさ”を回避し映画を支配しようと試みている。監督によってはCGを用いず、CG以前の方法で”制御できなさ”と対抗する監督もいるが、やはりそこには支配不可能なものが疎外的に生じてしまう。その疎外されたものこそが映画に輝きを与えるものとする立場もあるが、労働としての映画を考えると先にも述べた通り危険なものとして”制御できなさ”はとらえられてしまう。ただし、その危険な”制御できなさ”に魅力を抱いてしまう観客に罪はあるのだろうか。筆者はカークラッシュに対する倒錯者である。

『バニシングin60″』

 車への痕跡は制御できない。これを示す具体的な例として『デス・プルーフ』劇中でも話題に上がるH・B・ハリッキーの『バニシングin60″』(1974)を取り上げたい。
 クライマックス40分も続く車泥棒と数十台のパトカーとのカーチェイスで逃走車は段々とその車体を傷つけていく。40分のカーチェイスの中に数々のカークラッシュが用意されているが、最後の大クラッシュにおいて下り坂とジャンプ台に見立てた車の残骸により宙を舞った逃走車は着地の際前輪が車体に食い込みハンドリングが不可能な状態になったことがうかがえる。しかし、逃走車はその後も痕跡を纏ったまま走り続ける。クラッシュはコマ落としでその様子がはっきりと写るのだが、その直後のカットで別アングルによる通常速度のリプレイを確認すると、着地の仕方に差異がある。ここで撮り直しが明示されるが、通常速度のカットを先に、走行不能になるコマ落としのカットを後に撮った、もしくは2台同じ車を用意し1台が大破した後もう1台に同様の痕跡をつけ再撮影したかのどちらかだろう──その後、同じ車をガソリンスタンドで見つけた運転手はそれに乗り換えるため、後者の可能性が高い。
 また本作では意図しない事故が明らかに1か所存在する。ハイウェイを走る逃走車の後ろにパトカーが軽く接触した瞬間、逃走車は急に道を逸れ街灯に衝突、街灯はそのまま逃走車めがけて倒れてくる。仮に事故が再現されたものでも倒れてくる街灯は制御できないものであることがわかる。そして街灯はボンネットに大きな溝を作る。その溝が、痕跡が筆者にはたまらないのである。

H・B・ハリッキーの『バニシングin60″』(1974)

 ゲーム『グランド・セフト・オートⅤ』で炎上するまでカークラッシュを繰り返すのも楽しいが、やはり実写の車が痕跡を刻んでいく様子を見るのは爽快である。その痕跡は視覚的なものであり映画特有の唯一無二の表現かもしれない。結論を出すのは難しいが、タランティーノは『デス・プルーフ』で実写にしか表現できない映画における運動だけでなくその破壊による痕跡の美学を再提示してくれたように思える。

ジャン=リュック・ゴダール
『ウイークエンド』(1967)

文:毎日が月曜日

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