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硬式野球班に始まり、間に甲斐野央投手を挟み、硬式野球班に終わり、何かに続く我が人生

 初めての取材は硬式野球班だった。ここでやるんだと強く思った。

 入学前からスポトウへの入部を希望していたため、リーグ戦の日程は予習済み。火曜にやることを把握していたため、1年生の前期は火曜に必修以外は入れなかった。初参加の予定だった中大戦は雨のため見れず。翌週の亜大戦が私の東都デビューの試合となった。正直詳細までは覚えていないが、「ここで3年間やるんだ」と燃えたのは確かに覚えている。その後も取材には毎週火曜日顔を出し、授業間や移動時間には選手名鑑と睨めっこ。なんとか選手の顔と名前と学年、出身校などを一致させていたのが懐かしい。余談だが、後に担当する甲斐野投手のことは「すげぇ名前。強そ」くらいにしか思っていなかった。

 取材はしていたものの、ひとりで選手に取材することもなく春のリーグ戦が終わろうとしていたある日。チーフの一声で私に緊張が走った。『今日記事書こっか!』何を言っているのか本気で最初は分からなかったが、書いた。酷かった。右も左も分からない。書き出しも着地点もわからない。語彙もない。「やばい」。正直これしか思わなかったが、なんとか書いた。その後も1年生ながらそこそこの量の記事を書いた気がする。

 それぞれの学年の間にはそれなりの転機があるが、1年生から2年生になる時が1番大きい。これは断言できる。この一年はほぼ一人の選手に捧げたと言っても過言ではないからだ。そう、さっき名前が出た第一印象は苗字が強そうこと甲斐野投手だ。どんな1年だったかと聞かれたら、そりゃ大変だったと答える。いつ記事を書いても「ドラフト上位候補」という冠の元に読者の手に届くし、試合後の取材は常に1対1ではなかった。個別にコメントが欲しければ執念深く最後までバスの入り口まで追いかける。ペンを走らせる時間どころかメモ帳に目を落とす時間すら惜しかった。兎にも角にも大変だった1年のおかげで最後の年は楽になった気がする。どこかで語る日があったら2年時の話はまた書きたいと思う(笑)。

 最終学年は後輩も増えたし、ドラフト上位候補の担当も外れたし比較的楽なスタンスで過ごせた。まぁ、それでも大変だったことには大変だったと思う。全日本選手権の初陣スタメン発表の動画はPowerPointで作成していたのだが、100枚を超えるスライドを用いた。そのほかにも今まで取り入れなかったツイートの際のハッシュタグや記事内URLの埋め込み、秋の開幕スタメンは素材から動画を撮影して臨んだ。プロを見た2018年を経て、準備の大切さという点では大きく生かされていたと思う。
 ラストゲームはあまり覚えていないというか、引退の実感がなさすぎたんだと思う。「あ、3戦目に行くやつね」。なんて思っていたところもあるし、「勝つ」と強く思っていたからだ。でも、負けた。涙は出なかったし、元から泣くとも思ってなかったから違和感はなかった。実感が湧いたのはいつだろう。最後の寮取材が終わった時かなと。講義で会う機会が多い新副将の山本拳輝選手(法3=作新学院)を一年生ぶりに取材をしている時な気がします。「同期を取材できないんだ」。そんな自覚と共に急行池袋行きへ……。きっと大学を卒業するまで乗ることはない路線だったのかなと、もうちょっと考え事しながら乗ればよかったなと今になって思います。

 最後の取材も硬式野球班だった。楽しく周りに恵まれた、人生最高の3年間だった。

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 こんにちは。須之内です。最後まで読んでいただきありがとうございました。長えですね(笑)3年間ほんとにたくさんの経験ができて良かったなって思います。そりゃ、良いことだけではありませんでしたし、どっちの方が多かった?って聞かれたらマイナス面の方が量はあったかもしれません。でも、自分の中でやらない方が良かったという感情はないです。実りある時間だったと思います。

 末筆ではありますが、選手をはじめ選手の保護者様、そしてなによりも読者の皆様。3年間お世話になりました。硬式野球班で157本の記事を執筆させていただき、一番お目にかかる日が多かったのではないかと思います(笑)楽しんで…いただけてましたかね?あまり自信はありませんが、全体の3割くらいでも皆様に楽しんでいただけてたらギリギリ合格かなと思ってます。野球選手は3割目安ですからね(うるせえ)。本当に今までありがとうございました。今後どこかで執筆者としてお目にかかる日がありましたら、よろしくお願いします。

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