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こんな人は地獄に転生する!~ブッダの実践心理学第5巻(業と輪廻の分析)~

ブッダの実践心理学とは、ブッダの教えを忠実に伝えるスリランカのテーラワーダ仏教の僧侶であるスマナサーラ長老が、アビダンマという仏教のテキストを判りやすく解説した図書。
テーラワーダ仏教は、日本に伝わる大乗仏教徒は考え方が違う仏教。
タイトルは一見難解だけど、とても読みやすい口調で書かれているので安心。
第5巻では、業(カルマ)と輪廻転生のしくみと、どんな生き方をしたら、どうなってしまうのか、解説されている。

1.輪廻転生とは


「輪廻転生」、この言葉、信じない人がほとんどだろう。もちろん私もそうだった。
しかし、これは信じる、信じないの問題では無く、そうなっていると考えればつじつまが合う、という合理的な理屈だと思った。

テーラワーダ仏教では、心は身体とは別に存在するエネルギーの流れで、瞬間、瞬間、ものすごい早さで生まれては死ぬ、生まれては死ぬを繰り返していると考える。瞬間、瞬間、心はどんどん違うものに入れ替わっているということ。

ただ、瞬間、瞬間、生まれては死ぬのだけれど、生まれる時はその直前の心に影響されて、それと似たような心が生まれると考える。

ちなみにそれで、今この瞬間に心がある、ということは、ちょっと前にこの心と似たような心があった、と考える。だから、心がいつ生まれたか、始まりはない、そう考える。うーん、なるほど。

人間の場合、心は身体という乗り物に生まれる。そして、眼、耳、鼻、舌、身という五つの門から入る刺激を認識しながら、瞬間、瞬間生まれては死ぬ、を繰り返す。

身体には寿命がある。身体に乗っている心は、その身体の寿命が尽きたら、次の瞬間、即座に別のところに生まれる。実はこれが「輪廻転生」。

従って輪廻転生とは、私が死んで別の人間として生まれ変わる、ということとは全く違う。単に、瞬間瞬間生まれては死んでいる心が、寿命の尽きた身体を離れて別のところに生まれる、ただそれだけ。

2.地獄とは

さて、心が別のところに生まれるというけれど、その別のところとはどこでしょう。それは実は、必ずしも人間の世界とは限らない。
テーラワーダ仏教では、生命の次元は四種類あると定義する。

(1) 離善地:いわるゆ地獄の次元
(2) 欲善趣地:人間と動物と梵天(幸せな生き物)がいる次元
(3) 色界地:瞑想して禅定を作った強力な梵天の次元
(4) 無色界地:さらに瞑想を極めた生命の次元、身体はない

私の寿命が尽きたとき、私の心は次の瞬間、これらのどこかの次元に生まれる。
「そんなことしてたら地獄に落ちるよ!」と言われるとき、日本人なら鬼や閻魔様なんかを想像するだろう。

テーラワーダ仏教では、地獄の生命には身体は無く、ただただ恐ろしい苦しみをずーっと長い時間味わうことになると考える。
単に恐ろしい苦しみと言っても想像がつかない。そこで、多くの例え話が作られた。

地獄に行ったら舌を抜かれる、火で焼かれる、溶岩の釜があってその中で茹でられる、鋸で切られる…とてつもなく長い時間、こんな苦しみを受ける。こんなふうに説明されてきた。恐ろしすぎる。
何としても地獄には転生したくないものだ。

3.地獄に転生してしまう生き方

地獄(離善地)

私は、今世では幸いにも人間に生まれることができた。しかし、次は地獄に転生する可能性もあるそうだ。

どんな場合に地獄転生になってしまうのか。
今の身体の寿命が尽きる瞬間の心が、とても暗い、ネガティブな心になってしまったら、地獄の生命と波長があってしまい、地獄に転生してしまうそうだ。

どんなに頑張って生きていても、死ぬ瞬間の心が、次の行き先を決める。
死ぬ瞬間に、自分は善い行いをたくさんできた、他の生命の幸せを願う、というようなポジティブで幸せな心でいられれば、少なくとも人間や動物のいるこの次元に生まれることができる。

それなら好き勝手生きて、死ぬ瞬間の心だけ整えればいいじゃないか、と思う。
しかしそうはいかない。死ぬ瞬間は心が身体を離れる。なので心は、身体からの刺激(色、声、臭、味、触)に依存する必要なく、めちゃめちゃ自由で、コントロールできない、大暴れ状態になってしまうそうだ。

4.地獄以外に転生するには


身体の寿命が尽きる瞬間の、とてもコントロールできない心が、清らかで善であれば地獄転生はない。そうするには、やっぱり生きている間に、がんばってどうあっても落ち着いて清らかでいられる心を育てておくことが善い。

そのために自分の心、自分の行為が、地獄転生につながる欲と怒りを動機にしていないか、常に見張っておく必要がある。

欲と怒りは、他の生命を殺してでも自分が生き残りたいという、生存本能に直結している。
それは生き物として仕方がない宿命なのだけれど、人間に生まれた我々は、自分がいつか死ぬことを自覚できる。
そうして、生存本能だけに操られて生じる欲と怒りは、他の生命だけでなく自分をも苦しめる元凶であることに気づくことができる。気づく力は瞑想で鍛える。

瞑想


そして、善行為に務める。善行為は以下の10箇条に整理されている。
① :身体で善行為を行う
② :生き方や性格を戒める
③ 修習:思考や考え方や心そのものを育てる(瞑想する)
④ 恭敬:徳の高い人を敬う
⑤ 作務:やらなくてはならない雑事を行う
⑥ 功徳の布施:自分の善行為を他の生命にも分ける(自分だけ幸福になろうとせず、みんなを誘って善行為をするなど)
⑦ 功徳の随喜:他人の徳を自分が受ける(他人の善行為を、批判したり嫉妬したりせず、喜ぶことができる)
⑧ 聞法:説法を聞く
⑨ 説法:説法をする
⑩ 見直業:真理を確信する
 
一番、はっとしたのは⑦の功徳の随喜
他人が善いことをすると、ついついケチをつけたくなる。
同僚ががんばって昇格したとき、どこかで本人の実力以外の理由をさがす。それではだめなんだ。

他人の善行為を素直に喜べたら、確かに自分も幸せになれるだろう。他人の善行為にケチをつけるとき、実は自分の心は苦しみ、ストレスを感じている。目指せ天界への転生。

天界(色界地)

しかし、テーラワーダ仏教では、天界への転生よりももっと目指すべきところがあると教える。
それは、解脱。解脱すると輪廻転生から抜けられる。もう他の次元に生まれない。それが目指すべき究極の在り方。

解脱とは、つまるところ心を管理できるということだと思った。心は勝手に、欲と怒りを求めて生まれは死ぬ、肉体の寿命が尽きると輪廻転生を繰り返す、生存本能によって。
その心を自分で管理できること、それが解脱であり、苦からの脱出だと思った。頑張ろう。

ブッダ