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いつか死ぬ、いつか絶滅する、と知って生きる。~絶滅へようこそ~

「絶滅へようこそ」は東洋大学文学部哲学科教授の稲垣諭さんの著作。

1.生きることへの執着から距離をとる

先日、義母が亡くなった。そのときに、真っ先に思ったのは、「お義母さん、良かったね。」ということ。
不満の多い人だった。食べ物一つ食べるにも、これおいしいよ、と他人に勧められると、いつもそれはああで、これはこうで、と不平不満をおっしゃる。

90歳を過ぎて、病院での寝たきりとなり、痴呆も始まっていた矢先。そういう状態が長く続かず、あっさりと他界した。
もういろいろと不満を感じて苦しむことも無くなった、良かったね、と言いたい。

生きることは楽では無い、苦なのだから、お義母さんほどではないにしてもみんな不満がある。文句を言う。
でも、すべて終わる。あの人も、この人も、自分も、必ず死ぬのだから。
そもそも太陽にも終わりがあるそうだ。それは50億年後になるらしいが、確実に終わる。未来永劫続くものなど何も無い。当然地球上の生物は絶滅する。そう考えると、何かちょっと、ほっとする。

それは、いつかは死ぬんだ、と考えることで、生きることへの執着から距離をとることができるから。
そうすると、気負いから解放されるでしょ、そう著者が言っている。
そして、そんなふうに、死や絶滅を想像しながらも毎日を生きていけるのは、人間だけ。動物にはそんな概念はない。

2.計画的攻撃性から距離をとる

本書は、もう一つ、距離を置きたいものに気づかせてくれた。
計画的攻撃性。これも動物には無くて人間固有のもの。

原始時代の人間の集団は、獲物を平等に分けたり、平和と秩序を守るために、すぐにかっとなって暴力を振るうような人、反応的攻撃性の強い人を排除した。それを集団で行った。これが計画的攻撃性
集団としては平和でおとなしいのであるが、実は攻撃する。

そしてその攻撃を効果的に行うことができるのが、官僚制というシステム。
官僚制は、国家の統治だけでなく、学校や会社など、人間のあらゆる組織を動かしている。
これがあるから社会は回っているのだが、その裏には、計画的攻撃性が動いている。

警察が判りやすい例。犯罪を犯した人がいれば、力で排除することができる。これによって社会が平和に保たれる。
しかし間違った方向に行ってしまうと、アメリカで起こった警察によるの黒人の人への暴力や、歴史的な大惨事であるアウシュビッツでの集団虐殺が起こる。

官僚制にあおられて、盲目的に承他者を攻撃してしまう。それが人間の社会。
警察や国家だけでは無い、SNSでの炎上も、集団で攻撃するという、計画的攻撃の一つの現象。

3.そして会社で


毎日同じ時間に出勤し、仕事があってもなくても定時まではそこにいて、定時になっても上司が帰らないので、しばらくはこっそり自分のスマホなど確認して時間をやり過ごす。

会議の場で考えなければいけないのは、上役を怒らせないこと。本当に大事なことは会議で言ってはいけない。
会社で、期待される役割を演じることは、なかなかしんどい。本当は上役の判断が正しいと思っていない。そんなことしたら、若者はますます離れていく、と思ってしまう。
そんなことでストレスが溜まる。
これも官僚制の一面。

人が集まって、一人ではできない大きな何かをやろうとするとき、官僚制は役に立つ。人が集まれば、全員が同じように感じ、考えることはない。みんな、自分のそれまでの経験を背負い、引きずり、それぞれに感じ、考える。
だから、一つの目標に向かっていくときには、そんなみんなの小さなずれを表に出ないように押し込めつつ、丸まって進んでいく。
だからそれはそれで、人が大きなことを進めるために必要なシステム。

大事なことは、生への執着と計画的攻撃性に冷静に距離をとること。官僚制と、それによって増幅される計画的攻撃性に、盲目的にコントロールされることなく、他者に無駄な攻撃を加えないよう、安穏に生きる。
いつか死ぬときまで。