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【地歴日記 #18】 吉田松陰と“山口県の”松陰神社の話

こんにちは、1学期の期末試験で過去最低の成績をとってしまった中2部員です。

次のテストからは部活と両立しながら勉強をしっかりしていこうと思います

(ちなみに、地歴研部員なのに歴史の成績はテスト教科の中で2番目くらいに低かったです)。


さて、私事で申し訳ないのですが、今度山口県にある松陰神社に行くことになりました。

そこで今回は山口県の松陰神社について予習をかねて書いていきます。

そして、次僕が書くときに松陰神社へと実際に行った記事を書きます。



① そもそも吉田松陰はどんな人物?

松陰神社とは、その名の通り幕末の思想家吉田松陰および松陰が開いた松下村塾の生徒たちを祀る神社を指します。では、その吉田松陰の生涯を見ていきましょう。

松陰は、1830年に現在の山口県にあった萩藩の藩士のもとに生まれます。

松陰は周囲の人から兵学(戦いにおいての兵の動かし方や戦術を研究する学問)についての英才教育を受け、11歳の時には当時の萩藩主毛利敬親(もうりたかちか)に兵学の講義を行うほどに兵学に精通していました。


その後萩藩の藩校(藩が作った家臣を育てるための学校)で教鞭をとっていた松陰は、当時日本沿岸に頻繁に来航していた欧米列強の船のことを知り、外国船に対しての防備を調べる必要があると感じます。

そこで、藩に許可を得て5年もの間全国を回りながら知識人と交流などを繰り返しました。その間に歩いた距離は13000㎞にも及びました。


そんな中、1853年浦賀にペリーの乗った軍艦4隻が来航します。これを見て衝撃を

受けた松陰は、翌年黒船に直接乗り込み海外へ密航させてほしいと交渉しますが、失敗してしまいました。そして、海外への密航を試みた罪で萩の野山獄に投獄されてしまいます。


しかし、獄中でも松陰の学習意欲は失われませんでした。獄中で過ごした1年2か月の間、松陰は600冊もの本を読んだと言われています。また、他の囚人に孟子(古代中国の書物)の教えを講義して、逆に囚人たちから書道などを学びました。

そして、この獄中で改めて孟子の「国家にとって最も大事なのは民だ」という教えに感激し、その教えに反する幕府の政策を悲しむようになりました。

現存する松下村塾の建物

1855年、松陰はようやく獄を出て実家に幽閉となります。ここで、野山獄で行っていた講義が評判となったことで地元の子供たちに孟子などの教えを説きました。

これが、松下村塾です。松下村塾では書物だけでなく時事問題などをテーマにした活発な議論が昼夜問わず行われていました。松陰がここで教えた期間は1年ほどでしたが、松下村塾からは伊藤博文や山県有朋らのちに明治維新の原動力となる人物を育て上げました。

しかし、松陰の幕府への批判の声は次第に大きくなり、藩に意見書を提出するまでになりました。幕府に遠慮した藩の重役は、松陰の存在は萩藩が幕府に反抗していると思われる原因になるとして松陰を再び投獄しました。

そして、投獄されてもなお幕府批判をやめなかった松陰は幕府から取り締まられ、1859年11月21日江戸の伝馬町牢屋敷にて処刑されました。まだ29歳でした。


このように、吉田松陰は明治維新へとつながる新たな流れを作った人物であり、その松陰およびその教え子を祀るのが松陰神社なのです。



②松陰神社にはどんなものがある?

それでは、松陰神社の主な建物について見ていきましょう。

まずは、松陰を祀る本殿です。この本殿は、松陰神社の公式的な創建と同じ1907年にできましたが、現存するものは1955年に建造されました。

松陰神社の境内図(萩市観光協会公式ホームページより引用)

続いて、松下村塾の建物です。これは松陰が実際に講義を行った建物が現存しており、2015年には「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産にも登録されました。

ちなみに、先日他の部員もnoteに投稿した(そちらの記事もぜひ見てください!)東京都世田谷区にある松陰神社(同じく吉田松陰を祀る神社)に部屋を模した建物があります。

そして、杉家の旧宅です。杉家は松陰の実家で、野山獄から出た松陰が幽閉されていた場所でもあります。この建物も同じく当時から現存しているもので、世界遺産に登録されています。


いかがでしたでしょうか。

今回もどこにも行けなかったため、満足していただける記事になったかはわかりませんが、次回は実際に現地に行って満足していただける記事を書けるよう頑張りますのでよろしくお願いします。


以上、「吉田松陰と“山口県の”松陰神社の話」でした。