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【地歴日記 #22】 高橋是清の生涯 〜大蔵大臣としての活躍〜

はじめまして、海城中学地歴研の中一部員です。

もう8月も終盤ですね。夏休みも終盤になり、宿題に追われるような日々になってしまいました。今更、もっと「計画的にやっておいたらな」と思うこともあります。


さて、突然ですが今回は、高橋是清の生涯、特に大蔵大臣としての恐慌との戦いについて書かせていただきます。

高橋是清

(Wikipediaより引用)

高橋是清は、1854年に幕府の御用絵師の庶子として生まれました。
その後、仙台藩士の養子となります。

そして、1867年に藩命により、アメリカ留学することになります。

しかし、その先に待っていたのは、大変な苦労でした。

高橋は、留学し、とある老夫婦の家がホームステイ先になるのですが、老夫婦には歓迎されず、料理や掃除など手伝いばかりやらされて学校には行かせてもらえませんでした。

さらに、苦労は続きます。ある日、役場へと連れて行かれた高橋は、契約書へのサインを要求されます。
周りから、これに契約すれば、ブラウン家と言う裕福な家で生活でき、学問にも励めると言われ、高橋は契約書にサインをしてしまいます。
しかし、実際それは奴隷として働かされてしまう契約書でした。

留学生時代の高橋是清

留学生時代の高橋(右) (Wikipediaより引用)


高橋は、その後なんとか逃げることに成功し、1868年に帰国します。


帰国後、高橋は、文部省官僚、農商務省官僚として活躍していきます。

さらに、その後日本銀行に入行し、日露戦争の際には、日銀副総裁として、戦費調達のために努めます。

そして、高橋はその後も多くの役職を歴任していき、1905年に貴族院議員に勅選、1911年には日銀総裁に就任、1913年にはついに山本内閣の大蔵相に就任、同時期に立憲政友会に入党します。


その後、1921年には内閣総理大臣に就任しますが、閣内をまとめ上げることが
できず、1922年6月に失脚します。

しかし、その後も政治家として活発に活動していき、1924年には加藤高明、犬養毅らと共に普通選挙や政党内閣樹立を主張し、非政党内閣である清浦奎吾内閣を倒します。

図1

加藤高明内閣 前方の左から 犬養(逓信大臣)、髙橋(農商務大臣)、加藤(首相)
(歴史まとめnetより引用)

さて、総理としての功績はあまり目立たない高橋ですが、その後の大蔵大臣としての活躍が賞賛されています。ここからは、昭和時代の不景気や経済の混乱に高橋がどのような経済政策を行ったのか見ていきましょう。

ここからは上念司著「経済で読み解く日本史⑤大正・昭和」を参考にさせてもらっています。


まずは金融恐慌の発生からです。
その当時、1923年に起きた関東大震災による影響で、1927年には2億8000万円もの震災手形が残存していました。
大手銀行である渡辺銀行も巨額の震災手形を有しており、経営が危ないところまで陥っていました。ただ、渡辺銀行はなんとか資金を集めて手形決済ができる見通しへとなり、通常営業ができるようになります。

しかし、ここで問題が起きます。 なんと、渡辺銀行が手形の決済ができる見通しが立たず、経営危機の状況に陥っている時の情報を前提にして、当時の大蔵相が国会で答弁を行ってしまったのです。
結果、「渡辺銀行が破綻した。」という大変な失言をしてしまいます。

この原因は大蔵省官僚と大蔵大臣の情報の伝達ミスにありました。

これにより、営業のめどがたった渡辺銀行は、大臣の失言により、取り付け騒ぎに見舞われ、再び、破綻の危機に陥ります。

さらにその後、大銀行である台湾銀行も休業に追い込まれるなどして日本は、金融恐慌へと飲まれて行きます。

図1

取り付け騒ぎの様子(Wikipediaより引用)

そんな中で成立した田中義一内閣で、あの高橋是清が大蔵大臣に就任します。
高橋は、この恐慌対策として以下の3つを行いました。

1つ目はモラトリアム
これは、支払い延期措置のことです。

2つ目は金融緩和
これにより、預金者が「自分の預けている銀行は危ないかもしれない」と言う疑念を持たせないようにして、取り付け騒ぎを減らしました。

3つ目は台湾金融特別措置
金融緩和を前提に2億円の貸し出し上限が定められました。

これらの政策をおこなった高橋は、なんと44日で恐慌を収束させたといわれ
ます。


しかし、1930年ごろから再び恐慌が始まります。昭和恐慌です。


発生した原因として考えられるのは世界でのアメリカでの世界恐慌、そして、日本自身の金本位制の導入が挙げられます。

これにより日本経済は混乱し、物価、株価の暴落などデフレとなりました。

そんな中、第二次若槻内閣が倒れ、犬養内閣が成立します。そして、犬養内閣で高橋是清が再び大蔵大臣に就任します。

高橋は、一刻も早い「金本位制からの離脱」を推し進めました。

これにより、「一時的に」物価と株価は上昇していき、失業率は下がって行きました。

ただ、この金本位制からの離脱は貨幣の発行の上限を取り払うだけであり、実際に、貨幣量そのものを増加させる政策ではありませんでした。
しかも、将来的に貨幣量が増加すると人々に期待させる政策でもありませんでした。
結果、「一時的に」効果が出ましたが、やがて人々のインフレ期待は数ヶ月で萎み、物価や株価も元の状態に戻ってしまいます。

さらに、1932年5月、犬養首相が暗殺されてしまいます。これにより日本経済がまたもや悪い雰囲気へ覆われます。

そんな中、1932年11月25日に高橋是清は「日銀による国債の直接引き受け」を開始します。
これにより、貨幣量そのものの増加を行いました。

これら二つを中心とした政策のことは「高橋財政」と呼ばれています。
ちなみにこの高橋財政は、安倍晋三氏の行った経済政策「アベノミクス」の元にもなったと言われています。

さて、この政策により日本経済は以下の図のようになります。


図1

図1


まず、「昭和恐慌前後の日本の物価と株価の推移」の図を見ると、株価と物価が高橋財政が始まって1年後ごろから本格的に、上昇して行きました。

次に「株価と投資、景気動向指数」の図を見ると、投資額が上昇するのに少し遅れて景気動向指数DIも上昇していっています。

ちなみに、景気動向指数DIとは、景気に敏感に反応する生産、雇用など様々な指標の動きを統合したものです。

そして、時は少しとび1935年ごろ昭和恐慌から見事に回復した日本経済は安定軌道に乗ったと考えられるようになりました。

そこで、当時の岡田内閣でも大蔵大臣を務めていた高橋是清は日本経済は回復したという認識をもとに、翌年1936年には緊縮財政を行おうと計画しました。

図1

(Wikipediaより引用)

しかし、軍事費の増額を強く求めていた一部の過激な軍部たちからは反発を招きます。

結果、1936年2月26日、陸軍の青年将校たちによって、高橋大臣は暗殺されてしまいました。
この事件では、斎藤実内大臣、渡部錠太郎教育総監も暗殺されてしまいます。

図1

二・二六事件(論座より引用)


高橋是清は暗殺されてしまいましたが、多くの功績を挙げました。
その証拠のようなものの一つとして彼の写真がのちの五十円札へとなりました。

図1

高橋是清の50円札 僕のコレクション


出典:上念司『経済で読み解く日本史⑤ 大正・昭和編』飛鳥新社、2019年