「バードマン」とかいう映画のはなし

バードマン、って映画がありまして。
映画批評サイトではそこまで評価の高い映画ではなく、多くの人が
「終始退屈な映画」
「何が言いたいかよくわからない」
「つまらない」
みたいな感じでマイナスな評価を書いておりまして。
以前から気にはなっていて、でも上記の通りの評判なもので観るのを敬遠してたんですが、先日何の気無しに見てみました。
結果、前評判ほどつまらなくは感じず、結構おもしろかったです。

ただ、たしかに視聴された方々が仰っていることも分からないではなく、終始淡々とした登場人物同士の会話が繰り広げられ、アクロバティックなアクションやド派手なシーン、はたまた予想外の展開みたいな、観客の度肝を抜くようなシーンはほぼありませんでした。
そもそも、そういったシーンや展開が起こりうるような内容の映画でもないので、そこはまぁ無くて当然かな、といった感想で、何か突拍子もないスリリングな展開を期待して視聴した方々からつまらないと言われてしまうのは仕方がないなと思います。それを求めてこの映画を観ること自体がスタンスとしてどうなのかという話はありますが。

個人的な感想として、この映画の特筆すべき点は、一貫して昨今の映画会に蔓延するキャラクターありきの作品に対するアンチテーゼを訴えている点にあると思います。
バードマンが放映されていたのは、今から6年前の2014年。
当時、というか現在もですが、アベンジャーズやX-MEN、バットマン(ダークナイトシリーズ)といったアメコミを題材とした映画がヒットを連発していました。
どれも面白くて名作揃いであることには間違い無いのですが、こういった原作ありきの映画というものは得てして、映画としてのオリジナリティは微量であるように思われます。
基本的に原作があるので、登場するキャラクターありきで映画を作成するためそのキャラクターを精巧に演じることができれば、出演者は誰でもよく、アイアンマンがロバート・ダウニー・jrで無くてもよく、キャプテン・アメリカがクリス・エヴァンスで無くても良い、というのが正直なところかな、と思います。
(もちろん、彼らが演じた後の今となっては、他の役者が演じることに対する抵抗がありますし、現在の役者たちが降板した後に別の役者が引き継いでリレーするとなると抵抗はありますが)
上記の問題は、スパイダーマンシリーズが特に顕著にその問題を浮き彫りにしており、スパイダーマンを題材にした映画シリーズはここ20年ほどで3作存在しています。
第1作目のスパイダーマン。俗にサム・ライミ版と呼ばれたりもするこの作品で主役のピーター・パーカー(スパイダーマン)を演じたのは「トビー・マグワイア」でした。
次作のアメイジング・スパイダーマンで主役を演じたのは「アンドリュー・ガーフィールド」で、第3作目の「スパイダーマン・ホームカミング」「ファー・フロム・ホーム」で主役に抜擢されたのは「トム・ホランド」です。
このように、スパイダーマンを演じることができる役者であれば、主役はこの人でなければならない、といった観念は少々希薄なように思え、キャラクターありきで作品が作られる典型例かなと思っています。
(ただ、例に出しておきながら困ったのは、スパイダーマンはマルチバースという多言宇宙論が作品全体の設定として存在しており、異なる複数の世界線が同時並行で存在しているという前提があるため、主人公が複数存在することも当たり前なので、例としては最悪なように思えてきました。)
とにかく、映画を撮影する前段階において、この役者で映画を撮りたい!といった役者が主軸のプロット制作では無く、スパイダーマンを一番上手く演じられるのは誰か?といったキャラクター軸でプロット制作が進行するような作品であることに間違いはないと思います。

このように、原作やキャラクターありきの作品に出演した役者が観客にもたらすイメージは「アイアンマンのロバート・ダウニー・jr」や「キャプテン・アメリカのクリス・エヴァンス」であってその逆はあまりないと思っています。
今回のバードマンでもその点は若干語られており、マイケル・キートン演じる主人公のリーガン・トムソンは、序盤のメディアからインタビューを受けるシーンで、現在公開予定の舞台の内容より、かつて演じたバードマンに関する質問を受けるという少々かわいそうなシーンがこの、「キャラクターの役者」という観客のイメージの受け取り方を象徴しているように感じます。
このシーンではかつて演じたバードマンというキャラのポスターまでもらう始末で、これを苛立ちつつ壁から外し放るというシーンには、この問題に対する制作陣の苛立ちが表現されているように思えます。

バードマンでは、主人公はかつての栄光から一発屋のような存在として世間に認知されており一応知名度はあるが、それはバードマンの人としてであったり、名前は知ってるがそもそも何の役だったのかは分からないといった感じで、彼が演技によって評価されているわけでは無く、バードマンありきで過去に人気を博した人物であることが暗に描かれています。
そして、再起を誓い役者人生を掛けて望んだのが「愛について語るときに我々の語ること」という作品でした。
この作品自体は原作があるのですが脚本から演出から役者選びから、何から何まで主人公が指揮しており、その中で主役を演じる人物も、主人公であるリーガン・トムソン本人でした。
それはまさしくリーガン・トムソンが本人のために描き下ろした作品であり、「バードマンのリーガン・トムソン」として認知に苛まれてきた彼が「リーガン・トムソンといえばこれ」と世間に再認識してもらうための起死回生の一発だったと言えます。
この舞台は、色々と紆余曲折はあるものの、驚愕のラストシーンによって大成功を収め、彼は晴れて「リーガン・トムソン」という一人の役者としてもアイデンティティーを確立するに至るわけですが、これは現在も特定のキャラクターを自身の代名詞として語られているであろう現実世界のアクター・アクトレスたちには強烈に刺さったんじゃないかなと思います。
特に映画業界というか、ハリウッドの関係者にはまるで自分自身のことのように感じられたのではと思っており、ここに一般の観客との温度感の差が生じた要因が詰まっているように思えます。

この作品は前述のように、役者たちには他人事では済まされないようなメッセージ性を多分にはらんでおり、映画業界、ひいてはハリウッドの関係者に対して強烈なインパクトを残した結果、アカデミー賞9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の4部門を受賞するに至ったのではないかと思われます。
(撮影賞に関しては、ワンカット撮りの演出がすごすぎたのもあると思います。)
方や、これは一般人の目線からすると非現実的で妙にファンタジックな作品であるように見えるのは否めず、映画の業界人ほどには刺さらなかったのかなと思います。

なのでこのメッセージの刺さり具合の違いが一般の観客と業界人との差で、その差が世間とアカデミー賞との評価の差なのかなという感想に至りました。

とはいえ、主役のマイケル・キートンの渋い演技や重要人物を演じるエドワード・ノートンの圧巻の演技は必見で、それを観るためだけに視聴するのも十分にありだと思える作品なので、まだ見ていない方は是非一度視聴してみることをおすすめします。

ぶっちゃけめちゃくちゃ面白いです👍

※上記内容は完全に個人の主観なのであしからず。。。

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