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【4】着物記者歴30年のライターも驚く「究極のきもの」とは? お蚕さん篇②

「蚕から糸へ、糸から着物へ」プロジェクト!
《私たちのシルクロード》
第4回 お蚕さん篇② お蚕さんの卵、蚕種の話

お蚕さんから糸を作り、染めて織って着物に仕上げる――この全工程をレポートする「蚕から糸へ、糸から着物へ」プロジェクト。
それは「私たちのシルクロード」でありました。

前回「お蚕さん篇」①では、お蚕さんを迎える準備として、餌となる桑畑の管理をご紹介しました。今回のメインテーマは、お蚕さんの卵、蚕種(さんしゅ)です。

■蚕種は四国から

2020年9月1日、いよいよ花井雅美さんの「お蚕ファーム」にて秋の育蚕がスタートしました。

育てる品種は晩秋繭の「錦秋鐘和」(きんしゅうしょうわ)。安定していて病虫害にあいにくく、均一な糸を吐く優良種だそうです。『カイコの科学』日本蚕糸学会編(2020年、朝倉書店)によれば、現在日本で多く飼育され最も人気がある品種だとか。「国産繭のエース」という訳ですね。

花井さんの「育蚕」は、蚕種とよばれる蚕の卵が孵化(ふか)するところから始まります。(養蚕農家によっては、壮蚕といって3回脱皮した後の4令期から育蚕を行うところもあります。)

㉑蚕種アップ

花井さんが育てる蚕種は毎回、愛媛県の蚕種屋さんから購入しています。育蚕を始める「掃き立て」前日の8月31日に届きました。
上の写真は、8月31日の午後に撮影したもので、専用のパックに入っています。蚕種は約1ミリほどの大きさで、孵化前はグレー、生まれて殻になったのが白い粒です。合間に見える黒いのが生まれたばかりのお蚕さんで、「毛蚕」(けご・毛が生えているから)あるいは「蟻蚕」(ぎさん・アリみたいだから)と呼ばれます。

⑳蚕種孵化

成虫となった蚕蛾(かいこが)は、蚕種紙という専用の紙に卵を産み付けるのですが、掃き立て日に合わせて、蚕種屋さんが孵化の2週間ほど前から光や温度・湿度の細かい調節を行い、養蚕農家に出荷してくれるそうです。

この孵化を揃えるために調節を行う2週間ほどを「催青(さいせい)期間」といい、その名は孵化前日の卵が青みがかってくる(点青という)ことに由来するそうです。

お蚕さんは春以外自然に生まれないので、他の時期に行う育蚕では、浸酸処理が施されます。比重検査などを行って不受精卵などを取り除き、重さを量ってパックに詰めたのが、花井さんのところに届けられたのでした。

下の写真は、8月26日、蚕種を迎える5日前に稚蚕室の入り口を消毒する花井さん。孵化には適正温度があるので、蚕種が届く前から部屋の温度や湿度を整えて迎え入れています。VIP待遇、ですな。

⑦稚蚕室入口消毒

■でも、どうして蚕種屋?

「蚕種が届けられる・・・・・・。あー、そうなのか。」

不勉強な私は、見るもの聞くこと初めてのことで、ひとつひとつに感心してしまいます。確かに、出荷する繭の中に蛹(さなぎ)がいるから、卵を産んでくれる成虫は手元に残らず、卵を新たに入手するのだと合点がいきます。

「でも、どうして手元に少し成虫を残して、繁殖させることはしないのかな?」と、初心者の私は疑問を抱きました。

■実はスゴイ人たちだった蚕種家

出会いは面白いもので、ちょうど読んでいた本にその答えがありました。

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『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗的想像力』沢辺満智子(慶応大学出版会2020年)という書籍です。着物専門の季刊誌『美しいキモノ』2020年秋号の新刊書案内欄で紹介されていて、ちょうど花井さんとの出会いを果たしたばかりの私は縁を感じて購入したのでした。

この本によると、すでに江戸時代半ばには「養蚕から蚕種の生産部分が分業化」されていたみたい。歴史があるのね。戦国時代から平和な時代になって絹の需要が高まり、正徳3年(1713年)に幕府は国内の養蚕を奨励する御触書を発行し、各藩で養蚕業が活性化されたそうです。

蚕が良い繭をつくるかどうかは、蚕種の性質に大きく依存するため、良質な蚕種生産が独立した仕事となっていく。『養蚕と蚕神』p29より

現在につながる仕事のルーツを、たどれたような気持ちになりました。

ところで18世紀前半頃までの蚕種生産の中心地は、茨城の結城地方だったとか。その後、福島の奥州地方、18世紀後半頃からは信州の上田も有名になったそうです。「蚕都」といわれる信州の上田といえば、今回のプロジェクトで製糸を担当している中島愛さんの出身地。やはり上田の地が彼女を生んだのね、と勝手に得心しました。

さて、私たちが小学校、あるいは中学高校で歴史を学んだとき、明治時代に「富国強兵」「殖産興業」を推進し、近代国家を目指した日本において、生糸の輸出が国家の財政を支えていたことは、近代経済史の重要ポイントでした。しかし、私が知っていたのはここまでで、幕末の頃にイタリアやフランスで蚕種の病気が蔓延していたため、幕末から明治初め頃まで日本の「蚕種」そのものが輸出され、明治3年(1870年)における横浜港での「蚕種」の輸出額は、全体の約30%を占めていたことまでは知りませんでした!

蚕種家がそれだけ活躍していたってことですよね。蚕種って、すごい大事なポイントなのだと改めて思い知りました。

蚕種家まとめ】私の印象では《蚕種に通じる者、養蚕に通ず》。蚕種家は「多くの場合は農村集落の富農・豪農といった、農家の中でも比較的資産を持った知識階層」であり「養蚕法について独自の研究や実験を積極的に行」い、地域のリーダー的存在だった。明治初期から政府主導で蚕種家には「養蚕教師としての役割が課され」た。この時代に出版された養蚕の技術書「蚕書」を執筆したのも蚕種家だった。(カギ括弧内は『養蚕と蚕神』より)

思えば、花井さんの養蚕の先生は蚕種業に特化した方だそう。時代は地続きなのですね。

明治政府は、蚕糸業を盛んにし高品質の生糸を輸出するため、蚕種そのものの製造を国が管轄しようとしました。明治44年(1911年)の「蚕糸業法」では、それまで認められていた少量の自家用蚕種製造が一切禁じられ、蚕種製造業者は完全な免許制となり、そうでなければ蚕種生産ができなくなりました。この法律はその後改訂を重ね、平成10年(1998年)に廃止されたとか。

それが意味することを、私は類推こそすれ断言はできません。明治末頃1万軒以上あった蚕種製造業者は、昭和4年(1929年)の「蚕糸業法の改定」や翌年の「昭和恐慌」によって淘汰され、昭和9年(1934年)には4342業者と減少したもよう。令和3年(2021年)現在、私は完全に把握していませんが、数えるほどになっていることからすると、この業種に蓄積された知恵の貴重さが思われます。

今回の記事は、にわか勉強で『養蚕と蚕神』に帰するところが多いのですが、ちなみにこの本、すごい本でした。本記事では蚕種業にまつわる箇所だけ参照しましたが、本書で語られるメインはもっと別なところにあります。国策として蚕糸業を発展させてきたお堅い歴史と、養蚕に従事してきた女性達の信仰とお蚕さんとの関わりといった民俗的側面を、表裏一体に描き出した大著で、学術書ゆえに万人受けする書籍ではないけれど、この一冊で生々しいまでの時代のうねりを目撃させてもらったような気がしました。

吉田20210127メルマガ

花井雅美さんが手掛ける養蚕、中島愛さんの糸づくり、吉田美保子さんの染織。いずれも現代では希少な存在ですが、本書の価値も希少ではないかと思い、今回の記事であえて触れました。

歴史があって、今がある

ところで、今回の記事冒頭に出てきた養蚕ワード「掃き立て」と「催青」は、どちらも「春」の季語だそうな。もともと自然の摂理にしたがって、春に年1度の飼育を行っていたからです。                    

花井さんは、春と秋に育蚕をしていますが、昭和前期の最盛期や大規模農家では1年の間に5回、7回と育蚕されたといいます。これは、明治末から行われた蚕種の貯蔵法(荒船風穴)など孵化を遅らせる技術開発を経て、大正時代に人工孵化法の技術が確立して可能になったこと。

このように育蚕を1年に多数回できるようになれば、分業が進むというもので、かつては、というより近年まで熊本でも稚蚕を専門に育てる稚蚕飼育所があり、稚蚕飼育は養蚕農家の仕事ではなかったとか。逆に言えば、分業しなければ多数回の飼育はできないということです。

そして、桑葉に代わる人工飼料の開発も進み、昭和50年頃からは稚蚕飼育所で人工飼料による飼育を行うようになったといいます。

花井さんは養蚕農家になったばかりの4年間、稚蚕飼育の時期は熊本で最後に残っていた稚蚕飼育所に泊まり込み、4年間学びながら働かせてもらったとか。その後、稚蚕飼育所は閉鎖され、花井さんは2017年から先輩農家さんとともにみずから「お蚕ファーム」で稚蚕飼育から行っています。桑葉での稚蚕飼育は、その時から始めたそうです。

花井さんによれば「蚕糸業」は「蚕種業」「養蚕業」「製糸業」の3本柱で成り立っているとか。それぞれが日本の近代発展のため技術の開発に尽力してきた歴史があるのだと教えてくれました。

あー、「着物記者歴30年」なんてこの記事のタイトルに厚かましく付けているけど、「私、なんにも知らないんだな」と改めて思う今日この頃。

次回は稚蚕飼育。お蚕さんに桑の葉をあげます。養蚕といえばこれですね!4月15日(木)、生まれたばかりのお蚕さんの成長にお付き合いください。

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