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白トラ3.5『決意新たに』

■前のエピソード》

 前回、人から掛けられた言葉で僕のハートに激震が走る話をした。
 激震が走る言葉を掛けられたあと、実は他にも、ある話にやや惑わされそうになっていた。

 あれから6日間、毎日の様にやっていたあることが出来なくなっていた。しかし、お陰様で改めて決意を固められた気がしている。

 僕の内側でどんなことが渦巻いたか、『エピソードNo. 3.5』としてお話する。

 さて、激震のきっかけになったそのワードが何だったか?やはり自分では全く覚えていない。その場に同席していた友達が、「激震キーワードを覚えている」というので後日聞いてみた。

白へび
「もしかしてあの人僕に『傲慢』(ごうまん)て言った?」
友達
「傲慢!……ではありませんよ!頭でっかちになるなよ!……でした」
白へび
「漢字2文字じゃ無かったでしたっけ?」
友達
「…何か言いかけて
それは違うな!やっぱり頭でっかちという方が合ってるね!って」
白へび
「頭でっかちって言う直前に僕が話したことって、不食になるヒントについて僕なりの見解を述べてたりした時でしょうか?物質を食べるとか気持ちを食べるとか」
友達
「色んな話しが飛交っていたから…どの話題で彼女がそう言ったのか…『?』です」

 『そうだったっけ??』そんな感じがしてしまう。

 確かに、『頭でっかち』という言葉にはコンプレックスを感じる。それは確かなのだ。前回お話した「痛いところを突いて来る」という僕の言葉は、未だ『頭でっかち』に対する引っ掛かりがあるからだ。つまり過去にも全く別の場面で『頭でっかちにならないこと!』と言われたことがあるのだ。
 全くの畑違いの場であっても『頭でっかち』と人が言いたくなるほど、僕はそういう所があるのだ。

 『頭でっかち』になると進みたい方向への進行を自ら遅らせることになりそうだ。

 僕は確かに、見方によっては『頭でっかち』だ。『考える』ことが好きだからだ。
 しかし矢追純一さんの宇宙塾を通して、『答えが出ないのに延々考え続ける』ということはしなくなった。
 エナさんのセルフアウェイクを通して、『考えることと、感情が走ることは別物である』ということも腑に落ちるようになった。

 考えに考え込んでありもしない未来を案じて動けなくなるという思考先行型から、今は「とりあえずやってみるか」という所からの行動先行型にガラッと変わったのだ。

 僕は相当変わった。自分でそれが分かるのだ。

 自分でも歯止めが効かないHSP気質が、更に多方面にまで広がりを加速させインスピレーションがより湧き上がるようになった。

 それでも『頭でっかち』と言われたもんだから「!!!!!!!」と反応したようだ。

 でも、『頭でっかち』なのは未だ図星だ。

 僕が進みたい方向に対して、『考える』という行動が妨げになるかもしれないのに、未だそれを続けるのには自分なりの理由がある。

 僕だけが、自分だけがインスピレーションゆたかに目覚めていければいいのなら、完全に考えることを念頭から外してもいいと思う。

 でも僕は、『これから自分を解放していくことに目を向ける人たちをいかに導くか』ということに焦点を合わせているのだ。

 『無意味な考え癖』を『考えるツール』に変えてこれからも『考え抜く』ということを続けたい。『考える』とは僕にとって楽しいことだ。誰にもこの楽しみを邪魔することは出来ない。『考え抜く力』は超能力だ! 

芸術は爆発だ!
考え抜くことは才能だ!

 誰かに教えてもらったか何処かで見知った事柄を、実際に体験してそれが本当だった時、「何でそれがそうなるのだろう?」と、分析・解明することが僕にとって非常に面白いのだ

 見事結論を見出(みいだ)せたら『簡潔』(かんけつ)にまとめてお伝えしたい。考えるのは僕みたいなやつだけで十分だ

 右脳も左脳もハートも触覚も全てフル活用して新しい境地を見出したい。

 図星の『激震』によって揺さぶられた大地から隠された頭角が出現しそうになっている。ありがとうBさん。
 やはり同席した僕以外の6人の女性は導きの神と天使の集団だったに違いない。

 さて、【白トラ3.5】でお話したい事柄は冒頭にもお示しした通りもう一つある。

 その事柄もやはり、その飲み会で同席する友達によって伝えられた話がキモになっている。

友達
「〇〇さんって‥古いと思う」
白へび
「ほ~、何でまた‥」
伝えられた話とはたったこれだけだ。この〇〇さんとは、あるyoutuberのことを指して言っている。(以下:〇〇さん→tubeさん)

 このtubeさんは、神社仏閣のお参りの仕方やお作法をはじめ、お墓や先祖供養に関して発信している人である。霊能者のお師匠さんがいるらしく、そういう観点から発信しているようだ。因みに、5次元以上の物の見方などには目を向けていないみたいだ。
(5次元以上の物の見方に目を向けていないとはいえ、般若心経が「全ては空である」と説を解いていることをこの人はちゃんと知っている。それはさておき‥)

 友達と後日お話する機会があり「tubeさんが古い」と言った理由を聞くと、お墓詣り・先祖供養・修行といったようなことをして目覚めていく時代は終わるという話があるということに由来するというのである。

 冒頭でお話した『毎日の様にやっていたあることが数日出来なかった』ことというのは、神仏習合になっているうちの神棚の前での、読経と祝詞奏上することだった。

 そういえば僕は読経を通してどうしたかったのか?祝詞奏上を通してどうしたかったのか?何で先祖供養することに興味を持ったんだったか?
 ここ数日、何となく振り返る時間を過ごしていた。

 けさその答えが出て来た気がした。これこそ、考えた結果ではなくて、インスピレーションだった。

 そもそも何で読経するのか?

 tubeさん曰く「ご祈祷を受けるということは神様仏様との契約を意味します。ご祈祷を受けたお寺の仏さんの真言を唱えることで仏さんが自分の所に降りてくるから」と言うのである。
(無論、目的によって読経したり真言を唱えるにも用途も気持ちも変わってくるとは思う。)

 それは、守護天使の存在を時に感じ取ることと同じ要領のこととして、僕にとっては腑に落ち納得している。

 ではそれを僕は、目覚めるための修行としてやっているのか?というと『そういうつもりではやってない‥』という結論になってしまう。

 当時の修験道という人達がどんなことをしていたか?何処の山を、どんな道を歩き回ったか?実際に体験してその感覚を感じ取ってみたい。
 そういう点では、山行・滝行・護摩行などの修験道の行いを追体験することには興味がある。

 ではそれを、目覚めるための修行としてやっているのか?というと『そいうつもりではやってない‥』という結論にやはりなってしまう。

 先祖供養を何故するのか?
 tubeさんが提示する、開運・守護・幸せのためにやるのか?というと『べつにそういうことのためにやってるわけでもない』
(自己満足のためかもしれない。)

 

 が、しかし

 ご祈祷・修行・先祖供養にせよ、読経・祝詞奏上しているときの自分の心にフォーカスすると、結局『面白くてやってる感』が共通してあるのだ。

「あぁ、オレ、面白くてやってんだ!」
 今朝、突如としてそう判明した。
 非常に腑に落ちるのである。

祝詞奏上してる自分が好き。
神社の拝殿前で、
大祓いの祝詞を読んでる自分が好き。 

真言を唱えて
背中に熱を帯びる自分が心地よいのだ。

読経・真言・祝詞奏上の最中
全思考が停止している感覚まである

そんな自分が大好きだ。

 重症だ‥
 結局僕は自分が好きなのだ。

『世界忍者戦ジライヤ』の見過ぎだろうか。

※因みにジライヤは特にエンディングが熱い!様々なヒントが隠れている。

 今はこういうことをやり続けたい。やり続けた先に何か新たな道しるべがあるだろう。

 結果、考えることをしなくなるかもしれない。結果、読経をやめるかもしれない。でもそれはそれだ。『やってみた結果』ほどの説得力は多分他にないのだ。

 『聞いて腑に落ちた』ならいいけれど、それだけでは僕にとっては弱いのだ。有名なあの人がそう言ったからそうなのだと、単なる知識になっているならそれこそ『頭でっかち』で『古いこと』だと思う。

 ともかく、友達のお陰で『何かが・効果が欲しくてやってるわけじゃない』ことに気付くことが出来た。
 数日間出来なかった読経と祝詞奏上は今朝、気持ち改(あらた)に楽しく行うことが出来た。持つべきものは友達である。

 神棚のお供え物でも買いに行こうかな。

 つづく

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