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若者に「遠慮」はいらないけど「配慮」は必要じゃん?


どうも、かいとです!

自分の戒めも含めて、「若者に「遠慮」はいらないけど「配慮」は必要じゃん?」というタイトルにしました。
ここ最近あったことも踏まえて、タイトルの意味を噛み砕いていきます。

それでは、いってみましょう!

教え子の卒業公演に行ってきました。

先日、担任していた卒業生の演劇部の卒業公演がありました。今年卒業した学年はコロナの影響で海外研修に行けず、ありとあらゆる行事が中止、延期、縮小となり、「やりたい」と思っていたことができなくなった年代でした。だから、教え子が全力で頑張ってきた演劇を見れることに感謝しながら、行ってきました。

最高でした。感動しました。
ちなみに内容は、

「高校星」という星から地球に来た宇宙人が、人間を全員高校生にして、「高校生エネルギー」をもらって、高校星のエネルギーにしちゃうというありえない設定。

このありえなさがめっちゃ伏線回収されて面白い。

特に、高校生とおばあちゃんと総理大臣が高校生として同じクラスになって、繰り広げられるやりとりが面白すぎました。
異常事態でパニックになる女子高生が高校生になった総理大臣に向かって、「この状況なんとかしてくださいよ!」と言うと、総理大臣は「全力で状況を把握しています。」と偉そうに何も納得しない一言を述べる、という何とも政治家らしいセリフ。
こんな感じで、面白いながらにも皮肉がたっぷり詰まったアメリカンな演劇でした。さすが社会科の先生が書いただけあるなって感じでした。

そんな宇宙人役の顧問から出てきたセリフが面白かったので共有します。

青春時代をコロナ禍で過ごしてきた高校生は、やりたいことが「ダメ」と言われ続け、ようやく「できそう!」という兆しが出てきたものの、中止や延期を余儀なくされて、「やっぱ、ダメじゃん」という気持ちが蔓延されていった。
青春の時に溢れる「何かに向かって頑張るエネルギー」が失われているんじゃないかって。そのエネルギーがあれば、いつでも青春じゃないかな。だから、もう一度取り戻してほしいなと思って。

某・演劇部顧問のセリフより

某先生、間違っていたらすみません。

このセリフ聞いて、俺は、まだ青春を生きているな。って思いました。
ずーっと厨二房みたいに、「俺にやれることはあるんじゃないか。」って心の中で思い続けて、教員を辞めて、起業して今に至るのですが、青春している時って楽しいですよね。

ただ、若いからゆえ、青春できるんですが、それと同時に遠慮しがちなんですよね。若いうちは遠慮なんてしなくていいと思っています。出る杭は打たれる日本社会だから、何かをやってみようとか、勧められてみると、遠慮したくなる気持ちもわかります。ただ、若いうちはイエスマンくらいやってみるのがいいかなと。

遠慮せずに国会へ行ってきた。

3月上旬から「本気のリーダーの朝会」に参加させてもらっています。毎週水曜日朝7:00〜9:00で開催されています。経営者と学生30人くらいが1分間スピーチをして、経営者や学生が1名プレゼンをするのですがメンバーも内容もまあ面白い。
この朝会の校長先生が衆議院議員の荒井ゆたかさんということもあり、朝会メンバーで国会ツアーをする企画が3月末にありました。私は新参者です。参加して間もないので、遠慮して「いいなー、面白そう。」くらいに思っていましたが、「こんな二度とない機会を提供してくれているのに、遠慮するなんてもったいない。」と思い、先日、国会ツアーに参加してきました。

国会議事堂の空気に飲み込まれ、未だかつてしたことないポーズになりました。

一般傍聴もさせてもらったのですが、元社会科教員として「もっと早く現地に訪れていれば、政治の単元をもっと面白く伝えられたのに、、、」という気持ちになりました。現場を見る重要性を再認識。

教育をよりよくする姿に胸を打たれました。

参加したことによって、もう二度と見れないような場所に連れてってもらったり、新しい出会いがあり、今まで朝会では話せなかった人と話すことができて、次の仕事につながりそうな話になったり、「遠慮せず行ってよかった」という気持ちになりました。

遠慮って、

① 遠い将来まで見通して、深く考えること。
② 他人に対して、言葉や行動を控え目にすること。気がねして出しゃばらないこと。

コトバンクより

2つの意味があるようなのですが、①の意味で遠慮していることってあんまりないような気がしていて、どちらかと言うと、遠慮は「周りの目を気にして、自分が嫌われないよう、目立たないよう振る舞う」意味が強いと思うんです。
遠慮が全てダメとは思いません。時と場合に応じて、遠慮を選択する方が賢い場合もあります。ただ若いうちに遠慮ばかりしていると、大事なモノを失ってしまうリスクが隠されているように思います。

遠慮が自分の経験を捨て、成長を阻害する。

以前のnoteで中学時代がいかにハードな環境だったかを書きました。

あまりにもコーチが怖くて、試合も出てくありませんでした。練習試合では、なぜか「試合出たい人?」って試合前のミーティングで呼びかけられる時があるのですが、僕はいつも手上げるのが最後で、試合に出ることがあんまりありませんでした。
それは、試合に出ることで仲間に迷惑をかける、コーチに怒られるという理由でした。むしろ、そこまで考えていなかったかもしれません。単に「出たくない」という恐怖心でいっぱいだったかと。だから、遠慮する人の気持ちめっちゃわかるんです。

ただ、今振り返ると、あの試合に出ず、ベンチから試合を眺めている時間が私の成長を遅くしたと言っても過言ではありません。
遠慮し続けてた結果、自分が成長できず、成長できない結果、周りに迷惑をかけ、勝ちに貢献できない。という悪循環になってしまいした。
私は、向かうべき場所がある青春真っ只中なので、遠慮することはやめました。もう同じ過ちは繰り返さないと決めました。だから、遠慮せず、極力誘われたらイエスと応え、自分がやりたいと思ったら何事もまずはやってみるtことにしています。

ただ、周りへの配慮と感謝は必要だな、と気づいた。

遠慮する場面って常に何かにチャレンジしている時だと思うんです。だから、そのチャレンジから得られる経験や感情を失うのはあまりにもったいない。そんな遠慮を続けて行った先に何が待ち構えているか。「自分は何もしてこなかった」と嘆くだけです。
だから、やってきたチャンスは掴み取るように遠慮しないようにしています。

先ほど述べた朝会で超有名な経営者に質問できるチャンスがやってきたので、手上げて質問しようと思ったら、他にも3〜4人手をあげていました。私の前に経営者の方が周りにお礼を伝えながら質問をされました。そして、私が次に指名を受けたので質問したのですが、時間の都合上僕が最後の質問者でした。質問終わってから、

「なんて一人よがりな質問をしたんだ。周りも質問したかったのに、そこへの断りをせず、相手だけ見て質問したんだろう。」

質問後に明日のジョーばりにうつむいた。

と超反省しました。私は同世代と比べると、バッターボックスに立つ回数が多いと思っていますが、まだまだ打席数も打率も足りません。挑み続けなきゃ、と思っている時にバッターボックスに立つ上で「配慮」の重要性に気づきました。いや、バッターボックスに立つ回数が増えてきて、俯瞰して自分を見れるようになったからバッターボックスでの立ち振る舞いを考えるようになったというのが正確かもしれません。
自己満足だけを追求する自分がめっちゃ嫌いだったのを思い出して、「配慮」が必要だよなって気づきました。

配慮とは、

心をくばること。心づかい。心配。

遠慮より説明が雑コトバンクより

遠慮せずに、何でもかんでも挑み続けると応援してくれる人が離れていく。自分一人でやっているわけではないのに、その空間を作ってくれている人への感謝を忘れてしまったら、孤独になるぞ!!ってめっちゃ反省したというお話しでした。


自分がのびのび生きているのは、「生きている」からではなく、周りの支えがあって「生かされている」という感謝を忘れず、一瞬一瞬を生きたいと思いました。


あなたがここまで読んでくれた、この時間をもらえたことに感謝致します。
ありがとうございました。


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