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祈ることについて2024

大体祈り

 祈りについて、僕の立つ場所は祈りから遠ざかったり角度が変わったりすることが不可避であろうから今の考え方をここに書いておこうと思う。どこかの誰かの何かになれたらとかそんなことは考えないけど、もしそうなったらそれはそれで嬉しい。
 祈りという言葉そのものにあまり意味はない。個人的に、祈りと引いて辞書に書いてあるような意味から広げた使い方をしているからだ。人の為すことは大体祈りだと思っている。営みとかそんな言い方もいいかもしれないけど、やっぱり祈りという言葉が一番しっくりくる。
 祈ると言ったとき、僕たちは多分手を合わせて何かに頭の中で何かを念じることを想像すると思う。でも、僕たちは手を合わせなくたって頭の中で何かを唱えながら生きている。そしてそれとは無関係だと思いながら色々な行動を起こしている。
 勉強に励む受験生は頭のどこかであの大学に受かりたいと思っている。彼らの母親は、今日も頑張れるようにと弁当を作ったり昼食代を渡す。その積み重ねで、どうか受かりますようにと子供を送り出すその朝は、最後のその祈りが果てしなく無力に思えるかもしれないけど、実は既に祈りが成した奇跡の朝だったりする。

 街を歩いているとそんなことばかりだ。目に映るあれもこれも全てが誰かの祈りが紡いだ結果で、僕たち自身気の遠くなるほど前から紡がれてきた『生きる』という壮大な祈りの産物だということに気が付く。

今この瞬間無力でも

 僕たちの視界に映るものは大体誰かの祈りが積み重なって、色々な祈りを手繰り寄せた結果としてある。一方、祈りがひしめき合っているということは形にならなかった、結果が伴わなかった祈りも当然見えないだけであった筈だ。僕たちがこうしたいと何かを祈りかけて、現実的な問題を考えて諦めたその瞬間に祈りは誰かの祈りと合わさって結果に結びつく、ということから遠ざかってしまう。年中〇〇したいと祈っていれば、何かの拍子にその機会が訪れたときに自然と体が動いているなんてことがある。祈ることそのものにそれを実現する力は無い。当然、今すぐに行動できる祈りの方が結果に近づきやすいのは言うまでもない。でも祈りが成就する速度は一定じゃないし、いつどこで加速するかなんて誰にも分からない。
 だから僕は僕たちの人生を豊かにするために日々祈り続けることが必要だと思う。

 祈りが正しい言葉かどうかは分からないけど、祈りという言葉を使う理由くらいは伝わっていればいいなと思います。

2024/01/18

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