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「自分が大事にしている人に嫌われる」事だけは絶対に避けたい

僕は「自分が大事だと思った人に嫌われる」のが嫌である。

正直な話ライターとして他人に辛辣なコメントをされても「あっそ」でいなせる。大事にしてない人にテキトー言われてもだいたいは無かった事にできる。

でも「自分が大事だと思った人に嫌われる」これだけは、これだけは。一生涯を捧げても絶対に嫌である。

嫌であるが故に、その人に会うタイミングは徹底的に選ぶ。コンディションが悪い時にエンカウントするなんぞもっての他。絶対にコミュニケーション力が100%出せる時にその人に会う。

その時の脳内物質の感覚をなんと説明すればよいのか、それはわからないが、ここでは極力言語化してそれを書く。

「自分が大事にしている人」に嫌われた。もしくはそういう前兆が見えたとなったら、私は人生の全てを尽くして”それ”を修復したいと思わされる。

思っているのではなく、思わされている。

全身から血の気が引いていく。体がグラグラするのに、自分の頭部だけ血が集まって、攻撃性と依存性に心が満たされていく。

とにかく自分の人生の全身全霊を捧げてでも、その人に嫌われるという結末だけを回避したいと願う。

けれど他人という概念が簡単には動かせないという事実にも行き当たる。

そこまでは理解してるのだ。他人という生命をコントロールする事はできない。他人に絶対に嫌われないのは無理だ。と、ある種の論理性は脳内で完成はされている。

でも、実際に自分が大切に思っている人に嫌われるという可能性が射程圏内に入ってしまえば、ありとあらゆる書物で学んだ人間関係や、あれほどまでに感銘を受けた講演会や講座で学んだことは砂上の楼閣のように消え去ってしまう。

人間関係への答えを知っているのに"反応"してしまう自分。答えはわかっている、でもそうは脳が動いてない。

飲み込めない自分への自己嫌悪。それでも私は嫌われたくない。自分を傷つけて、その人が助けに来るという行為をもってして「許される」世界をも望んでしまう。


私はもっとドライになりたい。

全てをフラットに認識したい。

そのためにいっぱい勉強もした。こういう風に認知すれば良いというシステムの勉強。他者という存在を理解するためのロジック。それらは合理的で、全て適切なタイミングで適格に思い出せるように自分の論理の城を私は築いた。

でも、変わらなかった。他人に許されたい。大事にしている他人に嫌われるぐらいならば、あの全身の血液が下がっていく感じが永遠に続くのであれば、私が私である事すらもやめてしまいたいと思う。


求めるべきではない。でも求めたい。

すがるべきじゃない。でもすがりたい。

嫌われることがすべての終わりじゃないことは、私だってわかってる。

でもそうは思えない。どうしても。だから、どれだけそう思えって言われても無駄だった。

多分私はこの感情と一生セットで生きていくしか無いんだと思う。

恐らくこの性質は変わらない。ので、これからもこのこころの性質と付き合っていく。

答えを知ってても、そうは動けない。

そういう人たちもいる。そこに人生という概念の難しさがあると思う。


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