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DLチャンネルというDLsite傘下のオタク系テキストサイトに150万文字5年ほど書き…

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DLチャンネルというDLsite傘下のオタク系テキストサイトに150万文字5年ほど書き続けて、そろそろ新しい事をしようという話になってnoteをやる事に https://ch.dlsite.com/profile/75116/timeline DLチャンネルで書いた記事はこちら

最近の記事

映画で悪役や主人公がバイクを奪って一般人が「あ、俺のバイク!」ってなるシーンでバイクを奪われた人の気持ちを15分ずっと考えて映画の内容を忘れてる

映画とかで、主人公や悪役がバイクとかに乗って「あ、俺のバイク!」ってなるシーンあるじゃないですか。 主人公や悪役が逃げたり追いかける時に、他人の乗り物を勝手に奪うあのシーンです。 特にこのシーンがよくあったのが1980年代のハリウッド映画。この時期は本当にかわいそうなシーンが多くて、当時の警察官モノは「警察だ!」って言って手帳を見せて車を奪うシーン→車がオシャカになる展開が本当に多かった。 僕はこのシーンに結構引っかかる。 そこまでして執行する正義に意味があるのか。そ

    • 「初心者はwikiを読まないとトロール扱いになる対人・協力ゲーム」が苦手

      僕は対人ゲームや協力ゲームにおいて「wikiを読まないとトロール扱いになるゲーム」が凄く苦手だ。 wikiを読まないとトロール扱いになるゲームっていうのはだいたい「チュートリアルが基本のゲームシステムの説明だけで駆け引きの説明が全く無い」モノが多い。 駆け引きの説明とは、例えばオーバーウォッチで言うと「キャラクターのアンチピックを使った後出しジャンケンしながらウルトっていうリソースで戦うゲーム」みたいなゲームの本質的な駆け引きの事。 僕はとにかくゲームを買ったら何も調べ

      • 創作するっていう行為自体が呼び込む躁鬱ってあるよね

        僕は躁鬱の気がある。 でも、色んな躁鬱のエピソードを読む内に「そうだね」と思うポイントもあれば「そうでもないかな・・・」と思う場面もあった。 それで、僕が色々考えてたどり着いたのが「僕は創作躁鬱」なんじゃないか?という話だった。 「創作躁鬱」って何だよ。って思うので、こっから説明していく。 まず、僕は躁鬱っていう精神体質以前に「創作という行為自体が呼び込む躁鬱」があると思う。 バズるという確率の低い期待に振り回されて、アイデアを出す時に思い出すべきでない記憶を思い出

        • 「自分が大事にしている人に嫌われる」事だけは絶対に避けたい

          僕は「自分が大事だと思った人に嫌われる」のが嫌である。 正直な話ライターとして他人に辛辣なコメントをされても「あっそ」でいなせる。大事にしてない人にテキトー言われてもだいたいは無かった事にできる。 でも「自分が大事だと思った人に嫌われる」これだけは、これだけは。一生涯を捧げても絶対に嫌である。 嫌であるが故に、その人に会うタイミングは徹底的に選ぶ。コンディションが悪い時にエンカウントするなんぞもっての他。絶対にコミュニケーション力が100%出せる時にその人に会う。 そ

        映画で悪役や主人公がバイクを奪って一般人が「あ、俺のバイク!」ってなるシーンでバイクを奪われた人の気持ちを15分ずっと考えて映画の内容を忘れてる

        • 「初心者はwikiを読まないとトロール扱いになる対人・協力ゲーム」が苦手

        • 創作するっていう行為自体が呼び込む躁鬱ってあるよね

        • 「自分が大事にしている人に嫌われる」事だけは絶対に避けたい

          妄想までしかできずアウトプットできねえオタクが負けってこたねえだろ

          僕は妄想している。 それは10代の頃からそうだっし、今でもずっと妄想している。 音楽を聴いたら幻覚を見る。幻覚と言っても実際に浮き上がるそれではない。視覚に反映されずマインドのビジョンとして浮き上がる映像。その映像の方に意識を向ける。そういう幻覚。 僕が音楽の評論を諦めているのは、実は音楽って結局自分のビジュアルの妄想がみんな最優先なんでしょ?って思ってたりするのが原因。 みんな結局音楽を聞く時に、自分の好きなビジュアルや景色を夢想する脳内の個人的精神反応を発生させる

          妄想までしかできずアウトプットできねえオタクが負けってこたねえだろ

          「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠

          自己肯定感という言葉がある。 この言葉は日本では価値がある。人間なら持たねばならぬ財産であると重宝されている。 ・・・が、実際にはこの自己肯定感はかなり危うい片足立ちのバランスで成立している事に気をつけなければならない。 例えば「自分は素晴らしい存在だ」という自己肯定感があったとする。 「自分は素晴らしい存在だ」で止まるなら問題は無い。だが、人間は思考を次へ次へと派生する本能を持つ生き物で、ここでは止まらない。 「自分は素晴らしい存在だ」が「自分は評価されるべき存在

          「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠

          キャラクターに説明セリフを言わせつつキャラの生の台詞を引き出すのが異様に上手い「ZONE OF THE ENDERS ANUBIS」の話

          最近、PS2ゲームであるANUBISのムービーをよく見る。 まぁ~上手いのだ。説明セリフがとにかく上手い。 僕も短編小説を書いていた時期があるが、この説明セリフというのはとにかく厄介。 観客に情報を伝達する以上、どうしても説明はしなきゃいけんのだが、説明をすると当然ながら不自然になる。 例えば僕なら バーのシーンで旧友2人が会話をするシーンで「俺達、高校時代はサッカー部でいいトコまで行ったよな・・・」→「そうだな、全国大会で優勝目前まで行って・・・お前はシュートを外

          キャラクターに説明セリフを言わせつつキャラの生の台詞を引き出すのが異様に上手い「ZONE OF THE ENDERS ANUBIS」の話

          時間は全てを変えていく 良かったことも悪かったことも ひととそのありようの全てを書き換えていく 生きるとは、それを許容するか拒絶するかなんだと思う 歳を重ねる。好きだったモノがダメになる。正しい人が悪い人になる それを了解できるように生きたい

          時間は全てを変えていく 良かったことも悪かったことも ひととそのありようの全てを書き換えていく 生きるとは、それを許容するか拒絶するかなんだと思う 歳を重ねる。好きだったモノがダメになる。正しい人が悪い人になる それを了解できるように生きたい

          「できるなら、人はそれをやる」という事を早いタイミングで受け入れるとラクになる

          最近「やってしまう他人」への怒りを読む機会が多い。 転売。インプレ稼ぎ。炎上商法。 何にしても「どうしてそんな事をするんだ!」と怒る人は多い。 で、僕が提案したいのは「できるなら、人はそれをやる」という事を早いタイミングで受け入れたほうが良いんじゃないかな。という事です。 人は基本的に、やるべきやらないべきなどは関係なくできるならやります。 犯罪も不適切も、できるなら人はそれを選択してしまう。 「できるかどうかに心を奪われて、すべきかどうかは考えなかった」 恐竜

          「できるなら、人はそれをやる」という事を早いタイミングで受け入れるとラクになる

          10代の僕をたらふく釣ってくれたVIPの人たちありがとう

          最近、誹謗中傷とか、開示請求とかなりすましとか、いわゆるインターネットの「やっちまった人」の話をよく聴く。 あれ、毎回ニュースで見るたびに僕が1993年生まれで本当に良かったと思う。 もし僕が2007年生まれだったら、書類送検や開示請求されている自信がある。 恐れがあるとかじゃない。自信がある。 インターネットには「自分にはパワーがある」という意識を持たせやすい。 10代の持つ感情のエネルギー。情報を平面でしか捉えられなかった怒りに囚われていた20代前半。今振り返っ

          10代の僕をたらふく釣ってくれたVIPの人たちありがとう

          僕は「矛盾に殺されないため」に本を読んでいる

          この国の教育は諦めない事の美しさの神話性が強い。 少年よ大志を抱けというフレーズにもある通り、若い人間は理想を追いかけて、妥協せずに諦めない事への美しさをとにかく大人から説かれる。 でも、大人というステージに移行すると、今度は真逆の事を言われる。 大人になりなよ。というフレーズは、本質を言えばつまり「妥協で世界を捉えよ」という言葉に置き換える事ができる。 子供の頃はあんなに「諦めるな!」「夢は叶う!」「前に向かって突き進むんだ!」「君には無限の可能性がある!」と言って

          僕は「矛盾に殺されないため」に本を読んでいる

          体調が悪い時、好きなコンテンツを否定する情報を見ただけで「この情報は私の尊厳を否定した!」と思ってしまう

          今の情報社会を生き抜くためには「どの情報を無視して、どの情報を無視しないか」が大事だと思う。 気にするべき事は気にする。気にするべきでない事は気にしない。この立ち回りにこそ人格が現れるし「どの情報に引っかかるか」は人格評価に密接に関わる。 例えば生配信者にしても「そんなコメント拾わなくても・・・」みたいなコメントを拾って不健全状態に陥る配信者の評判は下がる。 情報を無視する事は、ある種の”大人”としてのパロメーターとして密接に関わってくる。 ・・・のだけれど、僕は調子

          体調が悪い時、好きなコンテンツを否定する情報を見ただけで「この情報は私の尊厳を否定した!」と思ってしまう

          僕がもし代表作なんて作ったらそれのウケ狙いを一生やる呪いにかかっちゃうよ

          作家にとって代表作って呪いじゃないかなと思う時がある。 一番それを感じるのはやはり宮崎駿だろう。 彼の映画を鑑賞しに来る観客というのは、私の一番好きなジブリをもう一度という期待感で映画館へ足を運ぶ。 けれど、その期待と違う映画を宮崎駿が作った時「これ違うじゃん」とレビューを書く人が結構いる。 私の好きないつものジブリと違うじゃん。裏切りじゃん。と言われてしまう。 日本のエンタメの受け手は思ってたのと違う=ダメという感覚が非常に強い感じがする(偏見かもしれないが)

          僕がもし代表作なんて作ったらそれのウケ狙いを一生やる呪いにかかっちゃうよ

          ”本当の戦争”が映った映画「戦場でワルツを」の話

          ※戦場でワルツをのラストシーンの描写を説明するので、情報を抜いて見たい方は視聴後の閲覧を推奨します。 僕は戦争を知らなかった。 1993年生まれの僕にとって、戦争とは空想だった。 毎年8月15日には反戦ドラマが放映された。社会科の授業では暗い部屋で戦争を題材にしたアニメを45分見させられた。 どれも全部空想だった。そこにリアルは無かったし、だから僕は「戦争は本当に戦争なのである」という単純なイコールの概念すら理解できていなかった。 ある日、戦場でワルツをという映画を

          ”本当の戦争”が映った映画「戦場でワルツを」の話

          ニンテンドースイッチの「生活系CM」が凄く怖い

          任天堂のいわゆる生活系CMというのがある。 家族が楽しくニンテンドースイッチを通して生活する様子を映したCMである。 これ。僕はメチャクチャ怖い。 目をこらして見ると、あれだけリアルだと思われた部屋の中に著作物や商品が無いのである。 アクエリも無い。サンリオのグッズも無い。あるのは無地のタイルと著作物が意図的に排除されたにも関わらずそこにある「生身の人間の部屋」として映るこの感じ。 凄く怖い。 家族という共同体。そしてその中で産まれるリアルな会話。思い出。 それ

          ニンテンドースイッチの「生活系CM」が凄く怖い

          生きてる時は「ベタ」書く時は「メタ」を切り替える

          創作をするためには論理を超越する必要があると感じている。 みんなはこう思う。みんなはこう感じる。そういう一般的な認知に対して「本当にそうだろうか」と否定的に。メタで世界を捉える必要がクリエイターにはある。 例えば、児童虐待がテーマの漫画を書くなら、何らかの意見の超越は必須。「なんとかしたいと思う」では読者は納得しない。問題提起をする以上、人類社会を超越するメッセージは必要だと感じる。 つまり疑う事が創作のスタートラインになるワケである。 でも、このメタ思考はかなり危う

          生きてる時は「ベタ」書く時は「メタ」を切り替える