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「誰も傷つけない笑い」を10年続けたセイキンTVの美しさについて

どうも。

僕はセイキンTVが大好きである。

と、口にすると、みんな半分ネタ混じりの半笑いムードで「セイキンTV、好きなんだw」とどこかあざ笑うムードでの返答になる場合が多い。

でも、僕は本当にセイキンTVの事を美しい、本当に素晴らしい存在だと思っている。

その理由は「誰も傷つけない笑い」を10年に渡って徹底した事だと思う。

お笑いの本質とは「ひどい」事である。

つまり、ひどいことを言うとか、誰かがひどい目に遭うとか、そういう事がお笑いの本質である。

頭の中で面白いと思った漫画、アニメ。コント。何でも頭の中に浮かべて見て欲しい。

・・・どうだろう。言葉にしても暴力にしても「ひどい」と感じる要素がどこかにあったと思う。

ツッコミのハリセンにしても、毒舌にしても、要するに「笑って許して」のラインが許容できる酷さを狙うのがお笑いである。

しかし、セイキンTVはエンタメの世界にいながら「ひどい言葉、ひどいこと」をずっと避けながら動画活動を行ってきた。

そこに僕は、盛大なセイキンという彼に対する表現への圧倒的な美学に感動してしまう。

前にもこの記事で記述したが、セイキンTVはとにかく誰も傷つかない。

しかし、それは、誰も傷つかないが故に何も面白くないという境地に到達しており、2015年辺りのいわゆる虚無期と揶揄されるセイキンTVの動画は本当にファンでもありながら、虚無だなぁ・・・とニンマリしながら何度も繰り返し再生してしまう。

セイキンTVの動画は誰も傷つかなくていいエンタメを目指していた印象がある。

それはそうめんスライダーであり、ポップコーンマシンであり、焼肉プレートの世界でもある。

お笑いは誰かが傷つく必要性があるエンタメである。

バナナで滑って転び、熱湯風呂でアチアチになり、激辛ジュースで悶絶をして、タイキックを喰らう。

でも、そこにはある種の残酷さがあるのでは無いだろうか?

セイキンは誰のことをも傷つけないお笑いを、youtubeでやろうとした。

争いの絶えないインターネットで、誰のことをも傷つけないエンタメを全うしようとしたのである。

誰も傷つけないエンタメを目指す姿は、まるでundertaleのキャッチコピー「誰も死ななくていいやさしいRPG」のようではないか。

そう、僕はセイキンTVに、まるでundertaleのようなエモがあると思っている。

RPGという、本来はモンスターを倒さなければならないビデオゲームにおいて、undertaleは誰も傷つけないという選択を選ぶことができる。

そう、セイキンTVもまた。そうなのである

セイキンは誰も傷つけなかった。

誰も傷つけなかったという美しさが、セイキンにはある。

 「成長するものと生きるもの いつも美しさで終わるもの」

これはセイキンTVの自動字幕に現れた言葉だ。

偶然ではあるけれど、ここにこそセイキンTVの美学があった。

この言葉も美しい。

意味もわからないけれど、前に進もうという意志の強い力を感じる。

これらは全てアクシデントではあるけれど、僕はセイキンTVが呼び込んだ神話の一部のように感じてしまう。

誰も傷つけないエンタメを10年続けた。理想主義の男、セイキンを祝福する偶然のような気がしてならない。

僕はセイキンTVが好きだ。

誰も傷つかない笑いを、誰かが傷つかないとどうしようも無いyoutubeというフィールドでやった。そういう美しさが、セイキンTVにある。

僕はセイキンのようなエンタメを作りたい。

それがどれだけ面白くなくても、誰も傷つかなくて良いというセイキンの美しさを、僕も持っていたいから・・・


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