体調が悪い時、好きなコンテンツを否定する情報を見ただけで「この情報は私の尊厳を否定した!」と思ってしまう
今の情報社会を生き抜くためには「どの情報を無視して、どの情報を無視しないか」が大事だと思う。
気にするべき事は気にする。気にするべきでない事は気にしない。この立ち回りにこそ人格が現れるし「どの情報に引っかかるか」は人格評価に密接に関わる。
例えば生配信者にしても「そんなコメント拾わなくても・・・」みたいなコメントを拾って不健全状態に陥る配信者の評判は下がる。
情報を無視する事は、ある種の”大人”としてのパロメーターとして密接に関わってくる。
・・・のだけれど、僕は調子が悪い時、否定的な情報を見ると「私の尊厳を否定した!」と感じてしまうタイミングがある。
例えば、ネットニュースで不適切な発言をした有名人がいたという話を見たとする。
別に気にする必要は無い。会ったことも無い他人の言葉でしか無いワケで、ここにこだわる必要は全く無い。客観的に見ても無視するのがノーマルである。
しかし、体調が悪いと「私の尊厳を踏みにじったな!」という怒りになる。
他にも、好きなアニメ。好きなゲームなんかが貶されていた時。「このゲーム。マジでゴミすぎwww」という誇張の情報がネットにはよくある。
これもこの意見に対立しようとするのは明らかな過剰防衛である。そのゲームの制作スタッフでも無い。制作チームでも、広報担当でも無いのだから、そこに自分の尊厳がコネクトされているワケが無いのである。
・・・にもかかわらず、時々、特に執筆が上手く行かない時にこういった情報を見ると「自分の尊厳が傷つけられた!」というタイプの怒りを僕は抱く時がある。
不思議である。傷ついたと感じたという事はつまり、好きなアニメやゲームと自分の尊厳が繋がっているとその時の僕は思っている。
その認知の不思議さに自分でもハテナマークが浮かぶ。
いくらなんでも過剰防衛が過ぎる。防衛だとしても、自分の損得が関わっていない否定的な意見にそこまでなぜ動揺するんだろう。
自分の心の動きが不思議だなと思う。
尊厳とは何だろう。と思う。
つまりこれは「私は私・貴方は貴方でしょ」という自他の区別を育成できなかった事に原因があるんだと思う。
「よそはよそ、うちはうち」という言葉を親からよく聴いていた気がする。
あれは今思い返せば「他人は他人である事を割り切れないと一生怒りに支配されるぞ」って事だったんだな。と振り返って思う。
他人を他人であると認められない。だから自分と違う意見を見るとそれを否定して自分の正しさの領域に持っていこうとする。
でも、意見が違うのは当たり前なんだ。だって他人だもの。自分ではない人間の言葉なんだから、それを受け入れる。
・・・と、ここまでわかってるのに、それを実行できないのが悔しい。答えを知っていても、答えのように動ける人間になれない。そこに自分という生き物への情けなさを感じる。
「他人は他人である、だから、思い通りには動かせない」
この単純な1つの物事が飲み込めない。
この感情は30代で卒業しようと思う。この9年間でこの物事を完璧に飲み込む。それを人生の目標にしよう。と、色々考えていた話でした。
ちなみに「思い通りにならない他人を許容する」コツは「いっぱい寝る」です。これはマジで効く。他人をコントロールしたくなったらいっぱい寝ましょう。
んじゃまた。
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