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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第2章:吊り橋 ①


 有季と付き合って半年も経たずに「紹介したいところがある」と言われて連れて行かれたところが「時子さん」のお店だった。銀座駅近くの路地裏のさらにもっと奥まった場所にある雑居ビルの3階に、彼女のお店はあった。

 常夜灯に照らされた鉄製のドアには、ひらがなで「たいむ」と書かれた年季の入ったプレートが垂れ下がっている。もういつのものなのか分からないほど錆びついていて、字もかすれていて、チェーンも切れかかっていた。もしかしたらこの中には死後数年経過した白骨化した遺体なんかが放置されているのではないか…、そんな恐ろしさを真剣に感じさせるほど、ぞっとする佇まいだった。

 鈍い音でギイっと鳴る重い扉をゆっくり開けると、その部屋の中には、紫色の髪をした着物姿の見返り美人が立っていた。

「あら、ユウちゃんじゃない。いらっしゃい」
「ママ、久しぶり!」

 いつになく有季は機嫌よく挨拶をする。彼が「たいむ」を訪れたのは、実に、2年ぶりのことだそうだ。
 そんな彼の後ろに隠れていた ” 僕 ” の存在に気づいた、” ママ ” は…

「そちらの子って、もしかして…」
「そうそう、やっと彼氏ができたんだよ。名前はシ…」

 有季が「シュン…」と言いかけたため、すかさず僕は、自分の名を名乗った。

「はじめまして。シュンっていいます、こんばんは」
「シュン君っていうのね、よろしく。私はトキコ。時間の子って書いて、トキコというのよ。それにしてもユウちゃん、随分、若い子に手を出したのね。いくつ?」

 有季が「23だよ」と言うと、時子は上品に笑った。彼女の所作のひとつひとつが美し過ぎて、気圧されそうになった。

 時子の第一印象は、花の「カキツバタ」だった。

 それは決して「髪」の色が ” 紫 ” だったから、というわけではない。色白で華奢な体躯は儚げで夢の世界の住人のような異次元性を漂わせていたけれども、心にはきりっとした芯の強さが宿っていた。
 そんな彼女の存在が、その花の気高さに等しいと感じたのだ。

 いわゆる「ゲイバー」を経営している時子は、生物学的には「男性」だ。噂によると(いや、彼女が自ら話したことではあるのだが…)、まだ、” ついている ” のだそうだ。
 バイセクシャルでもある彼女には婚姻歴があり、3人の子供のお父さんでもあるという。下の子が成人を迎えたタイミングで元妻とは離婚し、外資系の証券マンというキャリアも捨て、銀座の片隅に、念願だった自分の城を築いたのだそうだ。

 薄紅色の着物の袖をめくり、時子はお通しの準備を始めた。カウンターの中で野菜を切ったり、器に盛り付けたりしている彼女の姿は凛としていて、川辺に吹く風のような瑞々しさがあった。透き通ったグラスにお酒を注ぐその指も、高く整った鼻筋も、仄かに香るフリージアのパフュームも、この世のすべての美しさが、時子という一人の人間を選んで、清らかに包み込んでいるように思えた。

「シュン君はお酒、何にする?ビールとかのほうが良いのかしら?」

 僕がこういった類のお店を訪れるのは、実はこれが人生初のことだった。それ故、どのように振舞ったら良いのか、正解がまるで分からなかったのだ。
「…カ、カ、カシスソーダでお願いします」
「カシスね。了解。ユウちゃんはいつもどおり、スコッチ・ウイスキーのシングルモルトでいいのかしら?」
「うん。トマーティンかグレンモーレンジィってある?グレンフィディックでもいいんだけど」
「トマーティンならあるわよ」
「じゃあ、それをトワイス・アップで」

 時子は微笑んで「はいはーい」と言った。常連客のひとりとはいえ、彼女と親しげに話す有季の横顔に、ほんの少し、胸が痛んだ。

 パチパチパチッと炭酸が弾ける、カシスの入った細長いグラス越しに、彼女が約20年かけて築き上げてきた「城」を眺めていた。
 五人も入れば手狭となり、決して広いお店だとは言えなかったけれども、カウンターの横に備えつけられている棚にはお酒のボトルが百科事典みたいにきっちりと陳列されていたし、食器や包丁やまな板だって、清潔に慎ましく収納されていた。お通し用のおかずも色分けされたタッパーに小分けされていたし、新聞や雑誌も時系列でラックにすきっと収められていた。

 ここにあるすべてのものには、広大な大地で肥料たっぷりに育てられた野菜のような健やかさが感じられた。

 彼女の生き方そのもののようにも思えた。

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