見出し画像

三島由紀夫に出会う

三島由紀夫といえば、金閣寺を書いた人、美輪明宏と親交があった人、肉体を鍛えて映画とかにも出てた人、市ヶ谷で自決した人、こんな認識だった。

たまたま今年の11月25日の朝、出社日だったので身支度をしていると三島由紀夫と共に自決した森田必勝という青年の兄がインタビューに答えてる様子をNHKが放送していた。
共に自決した人がいたのかと、そしてその人の兄がまだ存命でこの出来事の関係者として話している様を見て、三島事件と今この瞬間はまだ地続きであると感じ、興味をかられ、出勤する電車の中スマホで三島事件のことを調べた。自決した三島由紀夫には日本という国に訴えたいことがあったことを初めて知った。

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という映画がやっていたことは知っていてなんとなく興味は持っていた。なんとなく興味はありつつも足を運ぶまでの行動には至っていなかったのだが11月25日を境にあの映画を観ねば、という思いが強くなり12月の初めの日曜日に観た。

映画の中の三島由紀夫は、とてもよく笑っていた。俳優がテレビの中で愛想笑いするような笑いではなく、本当に心から楽しくておかしくて笑っているようだった。この姿にまずものすごく惹きつけられた。そして誠意を持って全共闘の学生と議論するのだ。異なる意見の相手にも敬意を示し、聞き、話す。議論のあるべき姿を目の当たりにし、揺さぶられた。
印象的だったシーンは、東大全共闘随一の論客と呼ばれる学生が三島のたばこにマッチで火をつけるシーンだ。真っ向から対立し議論したその後に、とても自然に。主張はもちろん異なるし、反対の立場として敵対するような構図でありながら、敬意を示して議論すればそこには、右とか左とか、主張が違うから敵だとか、そんな安易な対立構造など存在し得ない。議論にはまず、相手への敬意を示し合うこと、これが必須条件であるのだと知った。

現代のネット上で名前も顔も晒さず誰かを誹謗中傷すること、相手を論破してただ自己満足すること、その無意味さと有害さを思わずにはいられなかった。

生きている時代が違えば、考えが異なるのは当然だと思う。それは理屈とか理論で説明ができるものではなく、自分が正しいと思うものを人生を歩む中で掴んだということで、その人の人生を他人が否定できるものではない、と思う。だだ、異なる考えの人と直接関わったり深く話したりする中で考えが変わっていくともまた当然と思う。

このような形で改めて今三島由紀夫という人に出会えて良かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?