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Bの不在

Bがいなくなって数週間が経った。
正確に言えばBは消えてしまったわけではなく、存在はしている。
その存在が薄れてしまったといった感じだろうか。
今、BはAの後ろに影を潜めている。
表に出てこないだけである。
ちなみにBはAでもあり、AはBでもある。
図形の証明問題、AB=AE、∠ABC=∠ABEの時、△ABC≡△AEDとなることを証明せよ。という話ではないが、
とにかくA=Bである。
Aとは誰なのか
Bとは誰なのか
A=B=私、であるのだが、今このnoteを書いているのはAなのか、Bなのか、私なのか…
おそらくBである。
B面の私、である。
Bが不在になってしまった理由はとにかく余裕がなくなってしまったからである。
時間の余裕、ではなく、心の余裕がない。
時間がないわけではない。
ちょっと本でも読もうかとページをめくる。
ちょっと写真を撮ろうかとカメラを手にする。
ちょっと綴ってみようかとnoteをひらく。
ちょっとnoteをのぞいてみる。
数ページしか読めない。
数枚しか撮れない。
数行しか書けない。
スキが押せない。

心がざわざわして落ち着かない。

こんなことしている場合なのか?
他にやらなきゃならないことがあるよね?
確かに色々やらなくてはならない事が増えてしまったのは事実である。

余裕がない。

今はそういう時、なのだと思う。

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

         旧約聖書 コヘレトの言葉より

物事にはタイミングがある。
ただそのタイミングがなぜ今なのか、今がそのタイミングなのか、よくわからない時もある。
それでも生きよ、ということなのだろう。
いつかわかる時が来るその日まで生きよ、
いつかわかる保証なんてないかもしれないが、それでも生きよ、
なるようにしかならない、
そう思いながら生きよ。
あきらめとは違う、肩の力がすっと抜けるような力がこの言葉にはある。

やがて混迷の日々は終わる。
しかし、おそらく、また新たな苦難はやってくる。
その時に慌てないために
この日々を忘れないように、
この日々を無駄にしないように、
未来を想像しながら生きていくことが難しい時代だからこそ、未来を想像していかなければならないと思う。


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