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風を操り進む帆船 古代アラビア商人の船ダウでの航海で気が付いたこと③ ~船乗りのイトナミと使命~

帆船ダウに乗りタンザニア バガモヨからザンジバルを目指す。
前回までの流れはこちらから。

なぜダウに乗るのか、船長探し。

真夜中の引き潮の中船に乗り込み、錨を上げるが出航できず。

腰の痛みと肥料の独特の匂いで起きた。
朝4時頃だった。木材が絶妙に腰に刺さり寝れない。

少しだけ場所を変えようとして動いたらいつの間にか隣で寝ていた船長Sureが帆をくれた。ここでは使い古した帆をシーツや毛布替わりにしている。
すっかり潮の香りと少しのべたべたがついた帆をありがたく毛布にして眠りについた。


朝を迎えた船上

幾ばくかは寝れただろう、朝7時頃だった。
夜明けは美しいだろうと想像していたが雲でそんなには見れなかった。

船乗りたちは朝ごはんを調達しにビーチにいった。船の周りはずっと膝上くらいには潮がきてるからあんまり出れない。

ビーチで売っていたマンダジを買ってきてくれた。長い夜だったが何も食べていなかったからお腹が空いていた。マンダジを食べると元気になってきて木材ベッドの疲れも取れてきた。

いつ出れるんだろう?わからないながらただ船の上で待つ。

朝10:30頃、20,000Tsh(1200円)追加してもいいかい?といって軽油を入れに行くといってきた。この船ANSWARI号は風がなかった時用にエンジンも積んでいる。ほとんど使わないらしいが。

100,000Tsh(6000円)もこの軽油代とザンジバル入島に必要なDocument代だ。


船乗りが歩いてきた道のり

また舵から海に降りそのまま裸足でガソリンスタンドまでいった。
10分くらい歩いた。

この時、泊まっていた宿の道を通った。
海から裸足で行くと感じ方が変わった。街に住んでいたつもりが急に船乗りの暮らしを整える街に見えた。船乗りたちが食料や木材など荷物を調達し船乗りたちがガソリンを調達する街。
そして、かつてはこの道を奴隷たちを連れて歩いていたのだろう。

船着き場からちょうどたどり着きやすい位置にガソリンスタンドがあったり、ちょうどいいところに飯屋があったりする。

あぁ、こうやって生きてきたんだ。
海の船乗りたちの暮らしとそれで栄えた街のイトナミが見えた。

2000年前の古代から続くイトナミ

このバガモヨも海港都市として10世紀から13世紀に栄えた。
古くはインドとの貿易。紀元1世紀~2世紀。2000年前から続くイトナミ。
象牙、サイの角、亀の甲羅などが東アフリカから売り出される。
インド洋の向こう側から代わりに入ってくるのは槍、短刀、ガラス製品、葡萄酒、麦など手工業製品だった。

時代が巡りシラジとしてアラビアのシーラーズから大量にアラビア人が8世紀に移住してくるとタンザニアのキルワに住み、その子孫たちは後の12世紀には金の交易で栄えた。

10世紀から13世紀になるとイエメン商人たちが紅海を出発し海沿いの港町に寄りながら貿易をするようになった。それに伴って栄えたのが海港都市であり、バガモヨもその一つだ。

彼らは紅海を出発し、ソマリアのモガディシオ、ケニアのマリンディ、ケニアのモンバサなどに寄って、タンザニアのバガモヨ、ザンジバル、キルワなどにくる。そのあとは、モザンビークのソファラまで季節風を使って航海し、金や象牙を得て帰っていった。

そうやって、イエメン系の王朝が誕生したりアラビアとの貿易の中で沿岸部のビジネス用語としてスワヒリ語も14世紀に成立した。

15世紀の終わりにポルトガルからバスコ・ダ・ガマが来るまでこの栄華は続いていた。

江戸時代にも日本人が来ていた

ちなみに、歴史上日本人もこの季節風を使ってモザンビークのソファラまで来ている。覚えているだろうか、伊東マンショや千々石ミゲルたちが天正遣欧使節としてインドまで到着、その後東アフリカまで来れることを知ってここまで来ているのだ。彼らはこうやってダウに乗り旅をして、季節風の移り変わりをモザンビークのソファラ港で5か月待って日本に帰ったそうだ。

そうすると、時代は鎖国になっておりキリシタンだった彼らは故郷に帰れなかった。

船乗りとして裸足で歩く道

彼らもここをこうやって歩いたかもしれない道を裸足で歩いた。
いまはアスファルトになっている部分もあるから砂利が非常に痛かった。

立ち寄ったガソリンスタンドの一軒目は灯油がなく、別のガソリンスタンドを探す。20Lほど買って運ぶ。頭に載せようとしたらこれは腕で運ばないと全身ガソリンまみれになると言われ腕で運ぶ。片腕で20kgは重い。10分ほどでリタイアしてSureに頼った。


これが船長Sure

10分ほど歩いて船に戻ってきた。舵のところから乗ろうとするが約1時間歩いていた。潮が満ちてきてもう腰まである。ズボンを脱いでパンツになって海に入っていった。

それでびちょびちょになってすぐに帆にかけて干した。
風は十分にある乾きやすかった。

船に乗ってもまだ待つ。お昼にとスイカを持ってきてくれた。
その場でナイフで器用に剥いて渡してくれる。
最高においしかった。


船の上で食べるスイカ(Tikiti maji)

出航

そしてようやく潮が満ちてきた。満潮は出航を意味する。
船に積み荷が重すぎるのかまだ十分に潮が満ち切ってないのか風では出航できないそうで、はじめの3Kmだけエンジンを使うと言われた。

ブルルルっとエンジンをかけてANSWARI号があの海の先へと滑り出した。
はじめの干潮で乗り込んだのが全日22時。出航は12時半。
実に14時間半待っての出航だった。

ちなみに、ANSWARI号の名前はアラビア語で「移民」という意味。
かつてアラビアをでてここに移り住んできた彼らもこうやって出航したのだろう。


3Kmほど進んでだんだんと街並みが小さくなってきた頃。風で進みたいという僕のたっての希望を聞き入れてエンジンを止めた。

ここからは帆を張り風を受けて進む。
さあ、男たちの仕事の力の見せ所だ。

全員が一気に動き出し帆を張る。
出航してからは乗り込んだ夜とは違いみんなイキイキとしていた。

すべて人力でロープを手繰り5人がかりで帆を張る。
徐々に徐々に帆が上にいき14mの高さに帆が据えられる。
圧巻な見た目をしている。

静かに動き出した船旅

こうして僕らの船旅はじまった。
帆を張ったら特にすることはない。休憩したり話したりの時間になる。
若い衆たちが順番に話しかけてくれる。

小型のダウ船は作るのに200万円、大型のマシュア船は約400万円する。
後ろの甲板が四角いか船のようにとがっているか少しだけ形が違う。
どちらも総称でダウと呼んでいる。

船長Abdiも買えなかったのでこのANSWARI号は借りてきて使っているらしい。
彼らはお隣の島ペンバ島出身だが、このダウで貿易をするためザンジバルに出てきている。

ペンバ族の彼らにとってダウに乗ることは船にお金がかかって最近は難しくなってきているが、大きくなったらダウを扱う船乗りになるのがペンバ族の誇りであり夢らしい。

そこに生まれし者の使命だそうだ。


続く…



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