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清水の舞台から飛び降りる

(東京にも清水の舞台はある。寛永寺の清水観音堂は清水の舞台を模して造られたものである)


世の中とは不思議な世界である。

ある人と先日電車の中で出会った。座席に座り、タブレットでメールを打っていたところ、LINEが画面に入ってきたのだ。
 「お久しぶりです。お元気ですか。今電車に乗ってますか?」という文面だった。
 発信者を確認して、辺りを見回してキョロキョロしたがわからない。駅かどこかで見かけて、LINEしてきたのかなと思ったとき、妙齢の女性と目が合い、微笑んだのである。その子の容姿容貌を認めたとき、わが目を疑った。わたしがイメージした子とまったく違った女性が乗客の間から全体の像を現した。

 おそらくわたしは正面で顔を合わせたとしても、名乗ってもらわなければわからないほど容貌も様子も違っていた。今の子の特性として、LINEで人違いかどうかを確認するのが当たり前の事なのか、それとも多少込み合ってるが話が聞こえてこない乗客の中で、声を出して知人であることを確認するのが恥ずかしいからなのかわからない。

 そう言えばこの子とは因縁があって、何故か出会うのである。5年か6年くらい前は毎日のように顔を合わせていたが、それっきりで出会う可能性はほぼゼロに等しかったはずである。ところがこの子にはこれまで3回ほど出会っている。この子の仲間とはだれ一人とも出会っていないのに、何故かこの子だけは出会うのである。

 今回出会ったのは電車内であったが、前にも一度電車内で会っている。電車内で出会う確率はその子が乗る電車の号車数とわたしの乗る号車数の傾向が同じである場合には高くなるのは間違いがないだろう。ましてや通勤・通学で使っているならなおさらである。その子は通学や通勤で電車を使っていたが、わたしは電車を月に一度使うか使わないかの頻度なのだ。しかも時間もバラバラなのに何故か会うのである。

 電車以外でも一度出会っている。新宿駅で人待ちしていたところ、やはり彼女からのLINEで近くにいることを知らされている。その場所も定番のスバルビルの「新宿の目」みたいなところではなく、みどりの窓口前なのである。このとき霊感を感じて、ジャンボ宝くじを買い、なにかに当たる確率のチャンスがわたしに近づいたと悟ったものだが、それは妄想にすぎなかった。
 
 ドラマや小説では、そのような偶然からストーリーが始まるのが常であるけれども、三度も偶然に遭遇したしたにもかかわらず、ストーリーが展開せず、お互いに近況を語り合って別れただけだった。出会うたびごとに、何らかのアクションを起こすべきでなかったのかと自問したが、自分で答えを見出せずに終わっている。

 これまでわたしは非日常のなかで、知り合いに会うという経験はほとんどないといえる。そんな中で、3回も出会うのは何らかの啓示ではないか。しかもわたしは、誰か知り合いはいないかと探していたわけではなく、あちらからコンタクトしてきたのである。この子が私を見つけたとしても、関わり合いになりたくないとスルーすることだってできたはずである。何らかの見えない力が、この子とわたしの間に将来にわたる因縁を結ぶきっかけを橋渡ししているかもしれないという妄想にかられる。

 わたしは若いときから、超自然的存在を信じる気持ちを育ててこなかったのに、こんな現実を突きつけられると何なんだろうと戸惑うばかりだ。実は、この子のLINE アドレスはわたしの携帯からはアクセスできない状態になっていた。携帯の設定ミスで、既存のアドレスの大半が消えてしまい、先方からのメールが送られない限り、アドレスの復活はありえない状態だった。それを復活させたのが「お久しぶりです。元気ですか。云々」のLINEメールだったのだ。

 ここでアクションを起こし、人生の新しいフェーズに突入すべきかどうかの瀬戸際にたっている。
   To be , or not to be : that is the question :
(このままでいいのか、このままでいけないのか、それが問題だ。)

 

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