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ある港町について

 ご老人は海に放尿されていた。
 私はそれを見て、彼は海と一体になっていると想像していた。人体はそのほとんどが水分だというので、海と尿を通して繋がっている間。彼もまた海の一部になっているような気がした。私はそんな妄想の裏付けが欲しいと願った。
 この小さな田舎町の港には、何艘かの漁船が停泊している。そのなかの「大栄丸」と書かれた船の傍らに老人は立っていた。船底塗料の銅の赤色が剥げ、いたるところにフジツボやカラス貝が張り付いている。彼は船のごつごつした船底に向かって放尿していた。

 波は船にぶつかって消え、コンクリートの壁にぶつかって消えた。大きな波、その孫の波も消えた。波を見たのは私だけ。すべては大海に消えた。ご老人の尿も。
 私は煙草に火を点け、彼を観察しつづけた。
 彼は大袈裟に動いて、尿を出し切ろうと努めた。はみでたシャツをズボンの中にしまいながら、「大栄丸」に乗り込んだ。それを見た私は「やった」と思った。彼はこの船と、この海で、この町で生活しているに違いない。私からみえる景色の中で彼はもはや海の一部だった。私は一瞬の躊躇の後に、煙草を海へと投げ捨てた。

 彼は漁船の中央まで歩き進み、そこで船首に背を向けるように座った。漁に使うものだろう。まるで手品のようにどこからか網を出してきた。今朝の漁で使った網を修理するのか。
 私はその場所を離れることにした。彼の生活を邪魔したくなかった。

 駅に戻ってもまだ次の汽車が来るまで時間があった。私は駅前のバス停のベンチに腰を掛けた。どこかで赤ん坊が母親を呼ぶ声がする。遠くに永遠と続く潮騒。
 家から持ってきた文庫本は読む気にならない。私は汽車を待ちながら、この港町に生まれた若者の将来を考えた。

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