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庵野秀明展「式日」企画書

まえがき、前提、凡例

まえがき:
庵野秀明展・山口展(2022年7月~9月)で、映画「式日」の企画書が展示されていた。
ロケ地となった地元ということもあって、おそらく他の巡回展より手厚かったのではないかと思う。
写真撮影可能な箇所だったのでしっかり撮ってきたが、公式図録も販売しているので、画像すべてをそのまま上げたり全文書き起こしたりするのはいかがかと思う。
気になった点だけをピックアップしながら、感想をつらつら書いてみる。
(例外として、図録に未収録の展示については画像をアップする。)

前提:
「式日」は2000年12月7日初公開。
初実写監督作「ラブ&ポップ」はデジタルカメラ撮影だったのに対し、「式日」はフィルム撮影が中心。
原作小説は藤谷文子「逃避夢」。
映画パンフレットに掲載された上、単行本は「逃避夢/焼け犬」2001年10月22日発行。
(あとがきに2001年7月27日から、おおまかに書き上げたのは2年と半年、とあるので、1999年初めごろには仕上がっていたのだろう。)
想像するに、私的に知り合った庵野秀明が出版前の小説の原稿を読ませてもらい、半ば公私混同で藤谷文子に夢中になった結果、の企画ではないか。
映画本編では、男=カントク、彼女、とクレジットされていたが、小説では小倉舞、平岡純という。
など違いがいくつか。
原作の原稿→企画書→映画本編の推移に思いを巡らせてみたい。

凡例:
・企画書やメモには見出しと見做せる文言があるので、それを■で表記してみた。
・アイデアがどう熟成されるか見るために、時系列はなるべく拾った。
・書き起こし部分は【 】で表記した。

■Blue(仮題)Ver1.0 '99 9/29

企画書の表紙? に赤字でびっしりとメモ。

【19+364(DAY)】
【「コウシン」更新 及び 後進 行進】
【18+01】
【「18YEARS+364DAY」は?】
【命日】
【ハッピーバースディ】
【ラブ V イズ V フォー V マイ V セルフ】

この辺はタイトルや副題の試行錯誤と思われる。
主演女優の誕生日へのこだわり。
「コウシン」を巡る思索が庵野っぽい。「死と再生」のニュアンス。

【姉とのかくしつ? 姉とのキョリ感】
【私のたん生日と姉の命日が同じ→これに対する通と母のリアクション】

あたりは、原作小説を踏襲しているが、

【文子を見せる→ラストは母と舞の主カン切りかえし】
【文子の一人しばいにする?】
【相手のカメラ目線をベースに】
【モノローグは文子の主カンぽく】

あたりは映像の見せ方や捻りを想定している。

【たん生日がこわい→何もせず一人ですごしたい→純のモチベーション→でも舞に会う「そうだ人生のすべては始まりなのだ。おわりというものはない。だれかがおわらせる。それだけのことだ」】

など、小説より踏み込んだモノローグを準備している。
この映画を見て、庵野秀明は「絵の人」であると同時に、意想外に「言葉の人」でもあると感じた。
しかも作中に出す言葉は、考え整理された言葉では決してなく、考えあぐねている真っ最中のうじうじをそのまま言語化している……これはエヴァ後半でも同じ。
ちなみに【純のモチベーション】からさらにもう一つ矢印を引っ張って、
【何か? 劇中での目的・目標が必要】
とか、
【何か願かけをしている?】
【お姉さんになろうとしている?】
【「死のう」と決心?→なぜか?ハカまいりをやめる→母の未すいをみて心がさめていく?】
というふうに、メモにはクエスチョンマークが多用されている。
問を立てて一応の答えを出し、答えの中でまた問を立てる人なのだ。

【目的(主)→いんしょう主ギ? セザンヌで】
【文子にはじめて会った時の感情を定着し、他人に伝えられないか?】

に、庵野秀明の得も言われぬパッションを感じる。

この企画書表紙の、上4分の1くらいは、紙を逆さにしてメモされている。

【母、この人はかわらない】(後略)
【キリでさす? 車でひく。もう一度ひけばよかった】
【家中のドアを開けて入ってくれとわめく母】

のような原作準拠の終盤のメモがあるが、ちょっと離れたところに、
【母 ふぶきじゅん?】
とある。
映画では大竹しのぶが怪演していたが、風吹ジュンもまたナイスキャスティングだと思う。

【自己しょう介から曲に入る?】
というこのときのメモが、映画ラストに活きている。

■ルーズリーフのメモ '00 1/3~1/22

【1/3 脳のなかのゆーれい】
【1/5 せーしん安定ざい→ただのスタビライザー キオクというものについて考えてみる→テーマ?】
【「いきがい」というものに対する価値観に感じるギモン→本当に必要なのか?」】
【1/7 実写は現実を受けとめ、受け入れる表現手段、イメージではアニメがベスト】

までは真っ当な思考だが、1行空けて、

【文子をみ力的に撮るという、現実。文子という女性・女優の実現→純愛としての行い?】
【文子のプロモーションとしての作品→これを命題とする→最っとも良い方法・手段・表現メディアは何か?】
【文子をいいと思うこと自体が狂気?→ベティ・ブルー?→映画にならないか? 自己暗示に入りこむ つきもの? キョーキ→つまり正常を喪ったしゅんかん、じょうたい→キロクできないか?→シャイニング?】
(大きな字で書き殴りっぽく)【結局、女を泣かすことしかできないのか!!】
【文子は全てうしなう そうおいつめた自分 先に泣く自分はズルい。】
【1/8 つまりは文子のための企画などではなく、文子が主役としてほしい企画にするべきだった。】

あたり、……不安定になってる!(恋ゆえに?)
さらに1/8は一行あけて以下の真っ当な試行錯誤に記述が移っているので、想像するに……、7日の夜に激して書いたか、激するきっかけとなる誰かとの会話があったのか、で、翌日朝に一行だけ反省を書いて、昼から試行錯誤を再開した、と勝手な妄想をしてみる。
もちろん以下のメモも興味深い。

【「宇宙人」がいる世界→きせいじゅう・MIB?→バクハ予告や声明文に宇宙人とかかれた犯人】
【別民族としてのメタファー?→自分にできるのか? セブンの巨大化がない話?】
【1/11 宇宙人と思っているただのもうそう者がヒトカタとよばれるデコイ(よばれる宇宙人)となった人間かを調べる刑事。デスハンター?】

以下略。
かなり路線変更というか試行錯誤中(……? いや、他作品のことを考えていたのか?)。
うまくコミュニケーションを取れない人を宇宙人と揶揄することがあるが、それを拡大解釈してウルトラマン世界(ただしサイズは常人)、というイメージがあったのか。
「メン・イン・ブラック」や岩明均「寄生獣」が出てくるあたりで、あ、ちゃんと流行も追ってるんだなと意外に思った(宮崎駿が黒田硫黄「茄子(アンダルシアの夏)」が好きだというくらいの意外さ)。「デスハンター」は初めて知ったが、平井和正=原作、桑田次郎=作画の漫画。

【1/22(中略)男女かんけいのきゅうきょくの形たい→SM】
【妄想の世界・コミュニケーションとイマジネーションの世界】

とあり、エヴァ後半を思い出せる……というか「ラブ&ポップ」を経由して、(初期)村上龍そのもののような思考だと感じる。

結局このページは半分以上書き起こしてしまった。

■企画検討用メモ 2000/1/6

ワープロで印刷したものに赤字で加筆。
「企画検討用メモ」の上に【「常に おしゃれ」】と加筆あり。ちょっと面白いフレーズ。

【仮題『リセット』『イエスタディ ワンスモァ』】
【ラッキーバースディ】
はわかるとして、
【アシオゴーゴー ASHIO GO! GO!】
ってなんだろう。検索してもよくわからなかった。

【母親を殺してしまった《と思い込んだ》少女が、その重すぎる現実から逃避するため自らの時間と記憶《いい母親としてキオク》を封印。】《 》は赤字で加筆。

とある。
原作小説でも映画本編でも母との遣り取りがあるが、企画の初期の初期では「殺してしまった」とした上ですぐに「と思い込んだ」と直したことが判る。

【その行為に付き合う男が語り部となる。(新作のロリータみたく)】

スタンリー・キューブリック「ロリータ」を更新しようとした?
いや、エイドリアン・ライン版「ロリータ」が1997年なので、素直にこちらをイメージしていたのだろう。
色彩もビビッドで似ている気がする。

【この二人の逃避行が物語の主軸となる。
  ○廃墟となっているホテルに隠れている定点モノか? 少女はその場所から出ようとしない。
  ○あちこちを逃げ回る移動モノか? 男は同じ場所で昨日を繰り返したくない。
  ○警察での男の事情聴取をナレーションとする再現劇モノか? 舞台劇・状況検分みたく?
  ○疑似ドキュメント形式か? インタビューや取材シーン、証言などを入れ込む?】

ストーリーの主軸が変わるくらいの試行錯誤だが、なんと本編では「ほぼすべて」活かしているのが面白い。
2つめは電車や線路を求めて、
3つめは4つめと近く、男=カントクにカメラを持たせた上、両者のナレーションを多用しているという意味で。
「ロリータ」も、検挙されたハンバート・ハンバートが取り調べを受ける形式だった。
ちなみに欄外に、

【ロリータ、つぐみ、ベティブルー、バッファロー'66】

というメモあり。
……いい趣味ですね。全部好き。特にベアトリス・ダルには直接インスパイアされていると思える。

【少女にとって今日は昨日の『リセット』 男にとっては『リピート』の日々とされる。】

核心に食い込む覚え書き。

あとは、おおまかに映画本編に沿った、少女と母親との確執、男への依存、ミステリー形式を導入せんとする意図をつらつら書いておいて、

【最終的には男女の純愛のようなものが出せればよいかと。
とにかくも生きていて、側にこのヒトがいたらそれでいいや、という感覚。】

と、ぶっきらぼうに書いている。
紆余曲折試行錯誤衒学趣味を盛り込みに盛り込んでおいてこの結論に投げ出すあたり、エヴァで既視感あり。
【閉じてる心を開くラスト。】
なんてエヴァそのものだし、……でも多くの創作の落としどころってこういうところなのかもしれない。

【キョーキを演じることによってキョーキに取り込まれていくドキュメントみたく。
 最初は1対1→キョーキ的になった時、自分でもう1カメをかんしように。
 →プラトニックはセックスに勝てるか?→愛情表現として映画を】

やっぱり藤谷文子に恋してたんじゃないか。

■『ハッピー・バースディ』(仮題)検討用プロット 2000 1/11

ワープロ印刷に赤字で加筆。

【時は、現在。舞台は、山口県宇部市。映像は、ただ美しく。
描くは、少女と男とその関係。】
【夕景。
寂れた街の様子。黄昏れた工場群。無人の商店街。】
【本屋とコンビニの袋を持った男が歩いている。
単線の踏切でふと泊まる男。】(以下略)

という具合で、かなり映画本編と同じプロット。

(※ただし、上記のルーズリーフのメモでは、
【1/11 宇宙人と思っているただのもうそう者がヒトカタとよばれるデコイ(よばれる宇宙人)となった人間かを調べる刑事。デスハンター?】
と書かれていた。
正解ルートを進みながら、別ルートも探っていた? 全然別の作品の構想?
ネタ帳だから当人にしかわからなくてよいのだが、このへんの真意はわかりづらい。)

赤字の加筆で気になったのは、

【男はモックン?】【のむらまんさい】 (庵野秀明自身のセルフイメージか?)
【「おじさん」「先生」】 (呼び名。カントクと設定したからこそ生まれた、本編の味)
【男は高い所にトラウマ→かつて少女をおいつめとびおりられてる→そのイメージを見る男「いや、高い所はちょっと苦手でね」】 (本編でもカントクは高所恐怖症だが、この背景は語られなかった)

【少女のいたいの前の男のかいそう? 何もない日々毎日が死へのカウントダウンだ】
【SEXを1回して死ぬ?】

まだ少女の扱いや落着の方向について決めあぐねている様子。
このあたり、いかにも独りよがりな中年男性の夢想っぽいが、どうか。
【男は元刑事?→真実を追い、ひぎ者(の母親)は自さつ→それを知った娘も男の目前でじさつする】【トラウマ有の現刑事?】
とあるので、むしろ男の設定や男と少女の関係がどう進んだか、を探っているのか。

【すべてはもうそう、君の名はふじたに~ 両しんもけんざい これは映画だ】

これはやらなくてよかった。
おそらく作品を作っていると、きっと一度はこういうアイデアを考えてしまう作り手なのだろう。
……「幕末太陽傳」、「ホーリー・マウンテン」、「田園に死す」など。
「エヴァ」旧劇場版でほぼカットされた実写パートの、空から「アスカ。アスカ。……僕が、いない」という庵野自身の声が降ってくるのを宮村優子が聞く、というシーンを思い出す。
やらなくてよかった。

■『サブライム・バースディ』(仮題)検討用プロット 2000 1/28

ワープロ原稿(ほとんど1/11と同じ)に赤字で加筆。

【シテキ・バースディ】
【シテキタンジョウビ】
【シテキ誕生日】
【私的、詞的、死的】

エヴァ「最後のシ者」や「シン・エヴァンゲリオン」に通じるセンス。

【ラストは何度もやり直す「これではないと思った」】
やっぱりこのアイデアが離れないみたいで、
【ハカイ リセット】
というメモもある。
少し離れた箇所に
【劇中劇としていろんなラストを見せる→どれを望むか少女に聞く(どんなラストを望むか)】
ともある。
うーん……。これは見てみたくなくもない。

【アメリカの夜?】
【一人称で映画をつくる過程を映画に?「これが私だ」→私が知ってる~みたく?】

という欄外書き込み。
トリュフォーやゴダール(「彼女について私が知っている二、三の事柄」?)

【男は気がおかしくなるほど好かれることにあこがれていた→本当はつかれることを知る】
【コミュニケーション育成映画】
というメモも、本編を的確に表している。

他、
ビデオ、ケータイ、電話などメディアや端末の活用。
アニメと実写とか虚構と現実とか、いろいろ。

■『サブライム・バースディ』(仮題)脚本第0稿 2000 2/10 ★図録未収録

ワープロ原稿に赤字で加筆。
ついに登場人物が具体化される。

【男・監督(30代後半)
少女(19歳)
自転車の男(30代前半)
携帯電話の女(20代半ば)
少女の母親(40代半ば・声のみ)】

【男のM「山口県 宇部市。気候は温暖、水は豊富という瀬戸内海に面した典型的な日本の箱庭型地方都市である。】(後略)

というナレーションが、ザ・説明的。太宰治「富嶽百景」みたいな、ありがちな。

【人ののぞむもの スキャンダルとイリュージョン】
【美しくきゃくしょくされたイリュージョン せきららにぞうふくされたスキャンダル】

という思想も。
脚色や増幅という言葉があるので、映画とかアニメとか表現論でもあると思う。

■アンビエンス・バースデイ(仮題)0稿 '00 2/16(2/13バージョン) ★図録未収録

表紙のみ。

■'00 6/23 ★図録未収録

撮影中? 編集中? 音声についてのメモ? 「キューティーハニー」について?

■サブライム(アンビエンスに取り消し線)・バースデイ 絵コンテ2枚  ★図録未収録

電車幻視のイメージシーン。
図録には4枚分収録されていたが、この展示は未収録だった。

■サブライム・バースデイ(仮題)初稿台本 表紙 2000 3/17 ★図録未収録

かなり直前までタイトルに迷っていた、のか、情報漏洩を避けて、なのか?

■スタジオカジノ 第一回作品 式日 SHIKI-JITSU 完成台本 ★図録未収録

個人的には、ここに日付が欲しかったところ。

■ロケ地写真 ★図録未収録

全部アップすることはしないが、展示の一区画を占めるくらい、相当な枚数ロケハンで撮影していたみたい。
高い所から町を見下ろす庵野が嬉しそう。
脱線。押井守が言っていたが、宮崎駿は欧州にロケに行ったとき、写真なんか撮らず心に焼き付けるんだと周囲に言っていたのに、日本に戻って資料が必要になったとき、どうして写真撮らないんだと怒ったとか。
押井守自身はロケハン大好きだが一切自身では撮影せず、ロケに同行する写真家を雇うのだとか(樋上晴彦)。あえてモノクロで撮影させて、色だけ後で想像でつけていくという話も聞いた気がする。

■宇部市内ロケーションマップ ★図録未収録

ロケ地探訪(聖地巡礼)に超・役立った。

あとがき

評論でも考察でもないので尻切れトンボに終わってしまうが、少し感想を書いてみる。
・タイトルの変遷は見るだけでも面白い。
・結構他作品からの着想が明示的に書かれていた。ポストモダンというか、オリジナリティなどないところから出発した世代。全カットに元ネタがあると岡田斗司夫が豪語する「トップをねらえ!」も、企画書や絵コンテなど見てみたい。
・内容的には、(「エヴァ」も片棒担いだ)俗流精神分析の行き着いた先に出来上がった映画だと思う。90年代の閉塞感を描きに描いたからこそ、ラストの笑顔→青空に突き抜けた感動が生まれるのだと思う。企画書の中にその試行錯誤が見えた。
・元は実相寺昭雄、岡本喜八、市川崑などなどのリミックスで生まれたとはいえ、今や庵野っぽい映像ということで「SSSS.GRIDMAN」や「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が浮かぶ。立派な参照元になっているのだ。しかし、上に書いた俗流精神分析や俗流心理主義は、90年代の徒花だったのか? アニメでそれっぽさはパッと浮かばない。邦画も容易には思い出せない。むしろアリ・アスター「ミッドサマー」やロバート・エガース「ライトハウス」のような、ジャンル映画の皮をかぶったアート寄り映画の中に、見られない気がしないでもない(もってまわった言い方しかできない)。
・ジャンルということでいえば、探偵とか刑事とかいう文言が企画メモに見られたが、庵野がそういうアイデアをこねくり回していたということ自体が、興味深い。……そういうのは押井守に任せておけばいいのに。まあ、その結果は「迷宮物件 FILE538」に結実してしまうわけだが。メタフィクションというのは、ポストモダンの作家が陥りがちな、魅力的な罠なのかね。
・藤谷文子への恋着。明らかに自分自身を岩井俊二に託して、作品内で主演女優と関係を築こうとする。その足掻きが企画にも見えるし、本編では映像として定着している。ジャン=ポール・ベルモンドに自身を仮託したゴダールとアンナ・カリーナの関係が永遠に残るように、たとえ現実では結ばれなくても、あるいは関係が数か月しか続かなかったとしても、映画として残る。いま気づいたが、東京都写真美術館にて初公開された日付が、2000年12月7日って、藤谷文子の誕生日じゃん。やっぱり誕生日プレゼントにしてラブレターじゃん。
・アニメも映画も「よってたかって作る」ものには違いないが、庵野のフィルモグラフィーの中では比較的庵野度数高めだと思う。未だに「総監督ってナニ!?」ともやもやするのだが、コントロールフリークな宮崎駿とは別ベクトル、監督といいつつ大部分を他人任せにする押井守とは同じベクトルとはいえ異なるスタンスで、作っている人。要は別に監督を立ててガシガシ上げさせた意見の中から正解を採用していくスタンスなのだと思うが、それってわざと露悪的にいえば手先が多いということ。それ考えたのって結局庵野なの樋口真嗣なの、というもやもやが残るのだ。そんな近年と比べれば、という話である。(水木しげるのサインをどの作品にしてほしいかといえば、水木プロ設立後の「ゲゲゲの鬼太郎」ではなく、水木しげるが単独で描いていた「墓場の鬼太郎」だ、というのと同じ。)
・企画書に答えはない。企画書、脚本、絵コンテなどを手に入れて読むとき、つい本編よりもそちらに答えがありそうに期待してしまうが、話は逆なのだ。提出された作品自体が作者の答えで、視聴者への発問になっているから。宮崎駿作品を読み解くために絵コンテ集を読んだり、富野由悠季の真意を求めて富野メモを読んだりしては躱され続けてきたが、今回の企画書精読も似た経験になった。残った感想としては、ひとつの作品を創り出すのにいい大人が一知半解右往左往輾転反側悶々苦悩五里霧中焦心苦慮躊躇逡巡する様子自体が面白いなー、ということ。


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