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91 科学者かっこちゃん かっこちゃんへ

91 科学者かっこちゃん

 お便りありがとう。
かっこちゃんの便りを何度も読み返して、改めてかっこちゃんは科学者だと思ったよ。
 脳科学もとても進んで、これまで見ることができなかったものも見えるようになったんだね。
そして、人間の心も科学で説明できることが増えてきたんだね。

 人類は、科学を生み出したことで進歩したんだろうか・・・ふと、そう考える。
進歩とはいったいどういうことなんだろう。
便利になること?
生活が豊かになること?
生活の目的は、楽しみを追うコト?
人間は、自然から離れて、自然に関する知識を得て、自然をコントロールする技術を所有しました。
そのときから、間違いに向かって突き進み「ほんとうのこと」から遥か遠ざかってしまったようです。

 科学が生まれるまで、人類は宗教によって救われてきましたね。
宇宙は物質でできていて、人は死んだら無になる、つまり、死んだらお終い。
死んだらお終いの世界に、苦しむために生まれて来るなら、人生はなんで報われる?
 だったら、神さまが存在することにして生きた方が、苦しみを力強く乗り越えていける。
だから、神さまは「いる」ことにしよう。
信じたら救われるんだ。
 だけど、そうなると信じない人はいけない人になってしまう。
いつまでたっても宗教による争いは終わらないね。

 荒野を40年間、奴隷だったユダヤ人を約束の地へ導いたリーダー、モーゼ。
彼がユダヤ教の掟を(神さまがそう言ったというふうにして)生み出していった様子が、旧約聖書に事細かに書かれています。
 最初は、十戒という10の戒めだったのが、延々とあれもダメこれもダメと書かれてゆき、ついに613もの戒律になったそうな。
やらなければならないこと258
やってはならないこと365
 その中には、食べ物に関する戒めもあって、
「四つ足で、蹄が割れていて、反芻するものしか食べてはならない」とある。
だから、牛と羊は食べてもいいけど、ヤギや豚はだめ。
「水の中にあって、ヒレと鱗のあるものしか食べてはならない」
だから、イカもタコもエビも貝も食べちゃだめ。
正統派のユダヤ教徒は一所懸命守っています。
 お寿司が大好きで、とりわけエビや貝に目がない僕は、掟破りだ。
それとも、過去世でユダヤ人だったのかも。
その反動で今世お寿司や豚カツが大好きなのかもね。
おっと、話がそれた、戻します。

脳科学が発達して、いつしか人の心が脳にあるような考えをも生み出しています。
でもね、やっぱりわからないよ。
科学は見えない心を、見えるものによって説明しているだけだ。
心は、脳や胸の中にあるんじゃなくて、心がすべてとしてある。
そう思うんだ。
身体のどこかにあるんじゃなくて、心がすべてとしてある。
 誰がこの身体を生きているんだろう。
呼吸も心臓も消化も「自分」が動かしてはいない。
「自分」が生きているわけじゃない。
脳の命令で動く?・・・では、脳をつくったのは誰?
自然がつくったのかなぁ。

 心はコロコロ変わるからココロって言うんだって、知らんけど(笑)
そんなにコロコロ変わるのに、変わらず自分でいるというのも不思議だよね、かっこちゃん。
感情や気分って、どこからかやってきて、またどこかへスーっと消えてしまう。
別の世界からやってくるように。
その別の世界ってどこにあるんだろうか。
 かっこちゃん、宇宙に果てがないように、自分にも果てがないね。

 ところで、かっこちゃんは仲間と奄美大島へ行っていたね。
毎日送ってくれるメルマガ旅日記で、一緒に旅している気持ちになれて嬉しかった。
僕はまだ奄美大島に行ったことがないから、とても憧れます。
 かっこちゃんは書いてくれました。
「旅はどこへ行くかも大事だけれど、誰と行くかはもっと大切」だって。
心許せる仲間との時間ほどかけがえのないものはありませんね。
 
 かっこちゃんと初めて会った日に、「本当のことだから」に「腹心の友・赤塚さんへ」とサインしてくれました。
みんなにそう書くの?と聞いたら、「いいえ、初めてです」と言ってくれたね。
あれからどれくらい経ったのだろう。
 いまでも、あの瞬間を鮮やかに覚えています。
友だち・・・
友だちがいないとつまらないんだろうか?
つまらない友だちといる方が、一人でいるより僕はつまらないよ。
だけど、腹心の友となると話は別さ。

 腹心の友は、大事なことを語り合える。
 そして、大事なことでつながっているから壊れない。

よく「人脈」という言葉を耳にするけれど、僕はそれが嫌いだ。
そこには損得の計算が働いているから、壊れる。
それを友情と勘違いする人も多いね。

 真の友は、自分の孤独に耐えられる者同士の間にしか生まれない。
自分の孤独に耐えられるというのは、自分で自分を認められるということ。
自分で自分を認められるっていうのは、自分で自分を愛せるということ。
つまり、孤独を愛することは、自分を愛することでもある。
孤独とは、虚しいものではなくとてつもなく豊かなことだよね。

 イエスキリストは、
「己を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言った。

それは、自分を愛することができない者に、他人を愛することなどできないってこと。
自分を愛せない人は、一見他人を愛するように見えて、実は自分を愛してくれる他人を求めているんだよ。
 孤独を愛し、自分を味わうのは、つまらない人といるよりもはるかに楽しい。
人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるって素敵だよね。
自分との対話、ひたすら自分と語り合う。
僕は何よりもそんな時間が尊いんだ。

 そうして出会う友は、同じものを見ているという信頼があり、対話によって深め合える。
そう、この文通が「魔法の」と名づけられたのもそういう意味さ。
だから、自分の孤独をうんと豊かにして待つんだ。
そうしたら、素晴らしい友があらわれたとき、応えられるから。

 友情は、愛の一つの在りようだね。
人間同士の愛と呼ばれる感情は、常に条件がついている。
例えば、自分の子どもだから・・・良い子だから・・・それは、その子そのものでなく、自分を愛しているってことだ。
自分の所有物として。
 
 神さまの愛・・・神さまというと何だか特別な宗教を思わせるけど、そう、
サムシンググレートの愛は、無条件だよね。
無差別で、一方的だ。
 相手を丸ごと認めて受け入れる。
そこに一切のエゴがないから。
 僕たちは、きっとそんな無条件の愛を学ぶためにこの世で生きているんだろう。

本当に自分を愛していたら、他人に自分を愛させようとはしないだろう。

 イエスは言った。
「自分がされて嬉しいことを人にしなさい。
 自分がされて嫌なことは人にしてはならない」

自分を愛するということは、他人を嫌わないってことなんだろう。
かっこちゃんを見ていると、人はここまで愛を生きることができるんだと思わせてもらえる。それは、いま、僕の人生の希望でもある。

 自分とは世界である。
 だから、自分を愛することは、世界を愛することでもあるんだね。

  かっこちゃん、おかえりなさい。
いい旅でしたね。
話を聞かせてもらうのを楽しみにしています。

               赤塚高仁


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