見出し画像

56  神さまはひいきをしない かっこちゃんへ


ただいま!

  ほぼひと月ぶりに家に帰ってきたよ。
愛犬のマロが僕のことを忘れて、吠えたりしたらどうしよう・・・なんて思ったりするほど、
長い旅をしていたように思います。

 津に戻ると、ちぎれるほど尻尾を振って飛びついてくれるマロでした。

 約3週間のイスラエル。ふたつのツアー。
日本から45人で一緒にイスラエルへ飛んで行って、10日間聖書の世界を味わってもらいベングリオン空港でお見送り。
それからひとりで4日間テルアビブに滞在していました。
今度は35人の仲間をベングリオン空港で迎えて、9日間の旅をして日本へ一緒に帰る。

 ちょっとハードなスケジュールかな、とも思ったけど以前にも経験あるし大丈夫だろうと考えてたんだ。そのとき、バラさんとふたりで現地の路線バスに乗ってエルサレムまで行った話は、前回の手紙で書いたね。

 
 かっこちゃん、イスラエルに行くと僕はとても元気になるよ。
なんだか見えないパイプがつながって、魂にエネルギーが注がれるような感じになる。
どこか遠いところと時の流れを超えて、情報が流れ込んでくるようなそんな気もする。
だから、訪ねる先で語り、聖書を読み、バスの中でもずっと話し続ける。

 かっこちゃん、イスラエルに行くと朝も昼も夜も野菜をいっぱい食べるよ。
国土の6割が年間降雨量200ミリ以下の砂漠の国で、あんなにもフレッシュな野菜が豊富にあること自体が奇跡だよね。
しかも、ひとつひとつの野菜がふぞろいで個性的。
そして何より味が濃くて力強い。エネルギーが高いのがわかる。
そんな野菜やフルーツのチカラも借りながら、語り続けてきたよ。
 人口が増え続けているイスラエル。
訪ねるたびに新しい街が大きく広がっている。
砂漠が緑に変わってゆく。
すごい国だ。

 「ミスターアカツカ、日本のように豊かな資源のある国が、どうして食物の6割を輸入に頼るのか? それは自殺行為だぞ」
と、以前友人のユダヤ人に言われてハッとした。
日本は天然資源に乏しいと思わされているけれど、砂漠から見たら天国のように水に恵まれている。
国土の60%が砂漠のイスラエルで、食物自給率が100%なんてすごくない?
でも、イスラエルでは当然のことなのです。
自立していなければ、国が滅びてしまうことを知っているから。

 魚に水が見えないように、日本人に日本が見えない。
だから、僕はイスラエルを何度でも何度でも訪ねる。
その旅は、日常では見えない本当の自分と出会う旅でもあるから。

 荒野で生まれたユダヤ教。
これが宗教の始まり。
羊のなめし革に墨で書かれた聖書。
これが本の始まり。
日本で聖書を読んでもわからなかったことが、書かれた場所に来たらわかる。
足の裏で読む聖書だから、学校や教会で学ぶものとはちがうけど、僕は、そうやってきた。
 キリストと呼ばれた一人のユダヤ人が、世界で最も有名な人物となったよ。
80億人いる地球人で、彼の名前を知らない人がいないくらい。
2000年も前にこの世を去っているのに、忘れ去られることなく今もなお人々の心に火を灯し続けているね。
 一体イエスは何を伝えたんだろう。
彼は30歳から33歳までのたった3年間だけ「本当のこと」を伝えたんだ。
僕たちは、その「本当のこと」を知るために人生という旅を続けている。

イエスが死んでから300年も経って、ユダヤ教から離れた新しい契約の書として「新約聖書」が生まれました。
キリスト教ではユダヤの聖書を「旧約聖書」と呼びます。
もちろんユダヤ教に新約聖書はないし旧約聖書もありません。
ただ「聖書」があるだけ。(ユダヤ教の経典トーラーと呼ぶこともある)。

 キリスト教では、イエスは処女マリアがベツレヘムの馬小屋で生んで飼い葉おけの中に寝かせたということになってる。
とても暑いベツレヘムを歩いていると、クリスマスのお祭り騒ぎが不思議に思えてくるよ。
だって、イスラエルにモミの木なんかないし、ましてやホワイトクリスマスなんてあるわけない。
 だから、聖書の話も「事実」であることよりも、そこに「本当のこと」を感じる心が大切なんだと思う。
そう、書いた人が何のために何を伝えたかったのかを。

 かっこちゃんは、「神さまの元ではみんな平等?」って僕に聞いたね。
初めてイスラエルに行った17年前のこと。朝、エルサレムの街を散歩していた時のことさ。
そうだよ、神さまの元ではみんな平等さ、と僕が言うと、
「イエスさまは人間?」と僕に聞いたよ。
そうさ、人間だ。でも、神さまの霊に満たされた人だったんだよ、と答えたね。
すると、「イエスさまとユダさんは平等?」とかっこちゃんは僕に聞いた。

 一瞬、言葉に詰まった。

聖書にはユダは、イエスを裏切って銀貨30枚でイエスを捕まえ、十字架に送る手引きをしたことになっている。
キリスト教では裏切り者としてずっと汚名を着せられている人物だ。

 かっこちゃんがそう思うなら、そんな考えもあっていい・・・そう僕は思った。
人は、いい面もあればそうでない部分だってある。
一つの出来事をとりあげて、ずっと裁き続けるのはもしかしたら神さまの心に適わないことかもしれないからね。
 神さまは公平で、ひいきはしない。
僕たち人間はそれに気づかず、一見うまくいっているように思えるとき得意になって、誰かを傷つけていることがあるかも知れない。
何かを得ているようで、その実、失いつつあるのかも知れない。
 表面上不幸に見えて、その裏側に深い真理が横たわっていることもある。

 かっこちゃん、僕はあの日のあなたからの問いかけを忘れたことはないよ。
ときには思い出して、と、かっこちゃんは言うけれど、腹心の友との対話はずっと続いているんだ。

 去年一緒にイスラエルを旅した時は、かっこちゃんは僕に
「聖書の神さまはすぐに怒る。
 ちょっと振り向いたくらいで塩の柱にしたり、洪水で世界を滅ぼしたり・・・
 怒りすぎや」
なんて言ったね。

 ユダヤ人を救うためにエジプトに災いをおこして、たくさんの人が死んだりするのだけど、神さまがそんな差別をするのかなぁと僕も思うようになった。

 ものごとがうまくいって、願い通りに生きることができたら、それはそれでいい。
でも、自分の立てた目標や願いが崩れてゆくときにこそ、より深い神さまの愛を知り人生の意義を味わえるのだと思うのです。
 だから、いかなる不幸も、それを機により大いなる幸いへの道となるのでしょう。

イエスという人は、神さまが差し出すすべてを「はい」って承った人だったんだ。
一見不幸に見える十字架の磔であろうと、真っすぐ本当のことを生きる姿を示してくださったのです。だから、時が流れても変わらず人々の心の中に生き続けているんだね。

 かっこちゃん、
僕は30代のころ「悟りたい」と思っていて、仏陀にあこがれて何度もインドにも行った。
悟ったらきっと幸せに生きられるし、悩みから解放されるし、なんでもわかるし・・・
なんて考えていた。
 あれから30年、それが間違いだと今ではわかる。
「悟る」って、自分のことを勘定に入れず、自分のことを言わなくなることです。
十字架の上にあってもイエスは自分が助かることではなく、自分を磔にした人たちのために祈っていたのですから。

 かっこちゃん、ありがとう。
僕がいなくなってもイスラエルへ仲間を連れていってくれると言ってくれて。
いつまでもずっと、どうぞこのまま、と願っても一切が移り変わってゆきます。
村上和雄先生が言っておられた「死ぬことは自然のリズム」という言葉が、あたたかく胸の中で光を放ちます。

 変わり続ける宇宙の中で、僕たちも変わり続けてゆこう。
変わらない何かを大切にしながら。

 さあ、ウクレレも練習しないとね。
「しあわせの森」京都上映会800人の会場いっぱいにしような。

           ただいま、かっこちゃん。

                高仁

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?