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93  ひとりの時間というたからもの かっこちゃんへ


 かっこちゃん、「さびしい気持ち」と書いてくれてありがとう。
ぼくは、まるでもうひとりの僕と話しているみたいな不思議な気持ちになったよ。
 人付き合いのいい社交家の僕と、人間嫌いで人見知りの僕とが一緒に暮らしている。
だから、誰と過ごしていてもさびしい気持ちになるし、ひとりの時間にあたたかな気持ちになることもある。

 だって、まだ僕は本当の自分についてよくわかっていないんだからね。

この間、雑誌のインタビューで
「あなたにとって、人生とはなんですか?」と聞かれた。
どうしてこの人はそんな質問をするのだろうと思った。
出会って間もない人に、どうやって生きてきたのかもわからない人に、何を伝えればいいの?
 きっとその人は、そういう質問をしてきたんだろう、いろんな人に。
そして、どう答えるのか観察しているに違いない。
自分の聞きたい答えが聞けるまで聞き続ける人がいる。
答えは、いつも自分の中にしかないのにね。
 僕は、こう答えた。
「ボクにとって人生とは、気がついたら始まっていたものです」

 僕の知ってる僕が始めたものじゃない。
でもまぎれもなく、僕の人生は始まってしまっている。
始まったのだから、必ず終わる。
いま、この世を生きているすべての生きとし生けるものの定めだね。
じゃあ、「死ぬ」ってどういうことなんだろう。
 ずいぶんたくさんの人のお葬式に参列したけれど、僕には「死ぬ」ということがわからないんだ。
だって、まだ死んだことはないし、死体は見たけど「死」を見たことはないから。
死体と死とはちがう。
 それなのに、誰もが「死」を恐れる。
かっこちゃん、僕は、ずっと考えていようと思うんだ。
どうやって生きるかを悩む前に、どうして生まれてきたのかって考える方が先さ。
 
 ところで、かっこちゃん、僕はいま、青森にいます。
青森から青い森鉄道で20分ほどの浅虫温泉に一人できました。
仲間たちと「高仁園」という会を主宰していて、これまであちらこちらへと旅してきました。
古事記を足の裏で読もう、と淡路~高千穂~出雲~奈良~そして伊勢。
高仁園でイスラエルに行ったこともあります。
 全国各地の仲間が家族みたいに集まるのは実に嬉しいものですね。
かっこちゃんと仲間たちの旅も無上の喜びのときでしょう。

 今回は、青森さくら旅~縄文とキリストを感じる旅~
三内丸山遺跡、弘前のさくらまつり、十和田湖畔の宿に泊まって宴会。
二日目の今日は、奥入瀬渓流、大石神ピラミッド、そしてキリストの墓。

 縄文時代は、日本が一つの国としてまとまる以前1万4千年も続いた文明なんだ。
縄文時代の遺跡は、全国で9万か所以上も発見されているんだよ。すごいね。
発掘されたものは、かっこちゃんが焼き物で作ってた火炎土器や土偶がある。
 遺跡では「何が発掘されるか」が注目されることが多いけど、
「何が見つからないか」も当時の文明を知るためにとても大事な手掛かりになる。
世界の古代遺跡では必ず発見されるのに、僕たちの先祖である縄文の遺跡からは発見されていないものがあるんだよ。
 それは、人が人を殺すための武器がまったく見つかっていないってこと。
遺跡から縄文時代の人骨がたくさん発見されているけれど、争いで死んだ人がほとんどいなかった。
 縄文式土器は、細かな細工に美しい縄目の模様が施されている。
こんな仕事は争いの世界では生まれないのだなぁ。
1万4千年という途方もなく長い時間の間、僕たちの先祖は争いで人と人とが殺し合うということをしなかった。
  僕たちに平和を愛する心を育み、平らかな世界を創造したいと願う思いを湧きあがらせてくれたのは縄文時代のDNAなのかも知れないと思った。

 三内丸山遺跡に吹く風に胸があつくなった。
そして、大きく息を吸い込んで縄文の声なき声をこころで聴いた。
感謝がわいたよ、かっこちゃん。

 世界史の教科書で「世界4大文明」と教えられました。
エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明ですね。
どれも約4000~5000年前におきた文明だとされています。
 でもね、世界の考古学者はみんな、世界で一番古い文明は「AOMORI三内丸山」縄文文明だと言っている。
 やっぱり、知ることは愛の始まりだよね。

それから、かっこちゃん
青森にキリストのお墓があるってさ。
何年か前に一度訪ねたことがあるんだけど、みんな好きなんだね、こういう不思議な話。
 昭和前期の新興宗教「皇祖皇太神宮天津教」の竹内文書にこんな風に書いてあるのだそうです。

「日本人は伝説のムー大陸の子孫で、ムー大陸沈没後も日本が世界の中心だった。
そのため、釈迦もモーゼもキリストも日本に来て英知を学んだ。
 ゴルゴダの丘で処刑されたイエスキリストは影武者で、死んだのは身代わりになった弟のイスキリ。本物のキリストはかつて神学を学んだ日本の青森に逃げ延び106歳まで生きて戸来村に没した。」

 ねえ、かっこちゃん、どう思う?
僕はね、不思議は詮索しないでおこうと思う。
何が正しくて、何が間違っているかでなく、そんな風にしてずっと大切にする心が素敵だと思ったから。
 日本には、宗教戦争がなかった。
それは、唯一絶対の神がすべてを創造したとする一神教の世界では「信じる」ことは絶対だよ。
すると、信じない人は間違っていることにしなければならない。

 以前訪ねた時には、荒唐無稽なインチキだと心のどこかで裁く気持ちがあったんだ。
でも、今日、とても豊かな気持ちでキリストの墓を参った。
すごいすごいと喜ぶ仲間たちのことも、いいなぁと思った。

 かっこちゃんと初めてイスラエルを旅した時、エルサレムの町を朝散歩して、
かっこちゃんは僕に聞いたね。

「あかつかさん、イエスさまは人間?」

  うん、神さまの霊に満たされた肉体を持ってこの世を生きられた人の子だよ。

「あかつかさん、神さまのもとではみんな平等?」

  そうさ、誰もが神の子だからね

「じゃあ、あかつかさん、イエスさまとユダさんは平等?」

   そのとき心の中では、ちがう!と叫ぶ僕がいた。
イエスと裏切り者ユダが平等なわけないじゃないか。

  だけど、「かっこちゃんが感じたことが本当かも知れない」と答えた。

 かっこちゃん、あのときから僕は「信じること」より「考えること」
「考えること」より「感じること」をより大切に思うようになったんだよ。

 信じる者は救われるのなら、信じないものは救われない。
そんな条件を神さまがつけるはずないものね。
神さまにとって、どんな子でも愛する我が子です。
神さまの愛が無条件でなければ、僕たちは許されて生きることさえできない。
無差別でなければおかしい。
そして、一方的だ。
見返りを求めるなんて神さまじゃない。

 かっこちゃん、僕はしあわせだ。

だって、そうだろ
自分で自分の人生を選んで、生きたくて生きているのだから。
生きるのは義務でも強制でもなく、生きたくて生きているんだ。

 小さいころ大人の人たちがよく言ってた。
「人生は苦しい。世の中は厳しい。
 思い通りにならないし、好きなことをやって生きてなんかいけない。
食べるために働かなければならない。」

 「家族を養わなければならないから働かなければならない」

じゃあ、人は何のために生まれてきて、何のために生きてゆくの?
仕事をするために生きているの?
 
生きるために仕事をしているの?

食べるために生きるの?

生きるために食べるの?

  かっこちゃん、すべて自分がそうしたくてしてるんだよ。

生きることは義務でも強制でもないさ。
 すべてどれを選ぶのも自由。
   決めるのは自分。

 30名の仲間たちを、青森空港、新青森駅、青森駅に見送って、
ひとりで浅虫温泉の宿の部屋で、この便りを書いています。

  ああ、一人も嬉しい、皆といても楽しい。
 自由だ。
 それこそがしあわせだ。

   かっこちゃんに手紙を書きながら、自分自身と対話するひと時。

     生きていることがとてもなつかしいよ。

      かっこちゃん、またね。

                赤塚高仁

 

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