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82 すべてに感謝して生きる   赤塚さんへ

82 すべてに感謝して生きる   赤塚さんへ

赤塚さんお手紙をありがとうございます。
赤塚さんはいつも、私のともすれば迷いの中にいる心を、だいじょうぶと取り戻してくれます。
赤塚さん、わたしね、今、宮澤賢治さんの「銀河鉄道の夜」を読みながら自分の心を見つめる作業をしています。賢治さんの本を読んでいると、私の中の何かが変化をしているというか、不思議な感覚があるのです。景色や葉っぱやすべてが美しくて、お友達やリトや私によく似て失敗したり自信がないももこのことや、すべてのたぶんなら、人、モノ、コトなにもかもが愛おしいというか、涙がこぼれてくる感じをもつようになりました。本当に不思議な感じです。
賢治さんの本を読みながら、自分の心を見つめる作業は、わたしにとってかけがえのない、この『魔法の文通』の赤塚さんとのやりとりを何度も思い起こさせてくれます。

赤塚さんが書いておられたように、すべてのものの中に、サムシング・グレートが働いている。これは、すべてのもの、たとえば細胞ひとつひとつの中に、宝石が輝いているそれが表からも見えるような感覚ではないかと思います。サムシング・グレートがすべてを光らせているということなのでしょうか?
賢治さんの『銀河鉄道の夜』の中の文章です。
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そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に來ました。
 カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云つてゐるのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」
「さうだ。」どこでぼくは、そんなこと習つたらうと思ひながら、ジヨバンニもぼんやり答へてゐました。
 河原の礫(つぶて)は、みんなすきとほつて、たしかに水晶や黄玉や、またくしやくしやの皺曲(しゅうきょく)をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジヨバンニは、走つてその渚に行つて、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももつとすきとほつてゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたしたところが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶつつかつてできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
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賢治さんは砂一つひとつが水晶で、中に小さな火が燃えているのをみつけます。そして、手を見ずに浸せば、それは燐光をあげて、ちらちら燃えるように見えるのです。
赤塚さん、賢治さんの言う燃えるものはいのちでしょうか? あるいは、サムシング・グレート自身とも言えるし、それぞれが持つ魂のようなものに、(わかりにくいけど、それもサムシング・グレートなんだろうけれど)サムシング・グレートがそれぞれの輝きを与えているということなのでしょうか?

ところで、私は本を作るとき、印刷の状態へ持っていくのに、インデザインというソフトを使っています。そのときに、賢治さんと私のフォントを変えたり、題字を大きくしたり、絵を入れたりといった作業をします。何時間も、ときには半日近くかかる作業です。
ところが、ずいぶん作業が進んだところで、ワードで編集をしていたのに、ずいぶん前のワードのテキストを流し込んでいたと気がついたり、ほぞんしていないまま突然ソフトが落ちてしまったりして、なんと5回も一から作り直すと言うことがありました。
赤塚さん、それは、今までしたことがすべて徒労に終わったような、砂山が崩れ落ちてしまったかのような、軽くではあるけど絶望感に襲われます。もうどうしたらいいの? どうしてくれるの? みたいな感覚です。
でも私はきかんぼうなので、しかたないよとまた結局は設定からやり直し始めます。そして、五回直して今わかることは、やはりすべてにサムシング・グレートが働いていたのだと確信するのです。
気がついていなかったけれど、途中の作業でミスがあって、PDFからテキストをコピーしなおしたものを流していたために、すべての文章の最後に改行が入っていたことがわかったり、インデザインの新しい機能を学べたり、すべてが大事だったんだとわかるのです。
赤塚さん、本を書いたり、お話をさせていただいていると、少なからず私の使った言葉だったり、考え方に批判というか、疑問で、メールが届いたりするものですね。
そんなときに、こうして赤塚さんからメールをいただいたり、自分もまたどんな意見にも耳を傾けながらいる姿勢がとれているのかと振り返ることができたりして、サムシング・グレートがこの批判もなぜ必要として用意してくださったのかと考えることができるものですね。そう思うと、この批判や批判をくださった方も、自分にとって、水晶のひとつなのですね。道端の石ころひとつも、きっと中でちらちら美しくいのちを燃やしているのでしょうね。

赤塚さん、そんなふうに考えると、聖墳墓教会の中で喧嘩をしていた、違った衣装を着た神父の存在はどんな意味があるのでしょう。
そばにいたすべてのものにとって、そこにもサムシング・グレートが働いていたとしたら、喧嘩もサムシング・グレートの采配で、こうして赤塚さんを通して神父さんのお話を伺えた、私にとっても水晶の炎のひとつとなるのでしょうか?
そして、これこそが、すべてのもののそれぞれの存在が輝いているということなのでしょうか?

まだまだ雪が多いこのごろですが、だんだんと朝の明けるのが早くなり、日暮が遅くなり、春の近づいているのが感じられます。

春が来たら、トルコ旅行の同窓会で、赤塚さんもみなさんもモナの森にかけつけてくださるのが、すごく楽しみです。

赤塚さん、いつも希望をありがとう。本当に赤塚さんの言葉にすべてがあります。
「いつも喜んでいよう 絶えず祈っていよう そして すべてのことに感謝しよう」
本当にありがとうございます。 またね。             かつこ

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