手話劇の視点からみるデフウェストシアター版「春のめざめ」の革新性

5年くらい前に、お友達の同人誌に載せてもらった文章です。
マイケル・アーデン演出のガイズ&ドールズの感想を書いたついでに公開します。当時は、まだマイノリティ当事者が演じる必要性については一般的ではなく、映画「CODA」がアカデミー賞の作品賞をとるとか想像もつかない頃で、今とは一部状況が異なる事もありますが、変わってないことも多いので、基本的に修正せずに公開します。
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『聴覚障害者によるアメリカ手話を振付に取り入れたミュージカル』
 デフウェストシアター版「春のめざめ」を説明する場面で、何度もこのような文章を目にしました。この紹介方法は、間違ってはいませんし、限られた文字数で表現する場合に必要な情報は全て入っています。この紹介文に惹かれて興味をもつ人も多い事はわかります。ただ、国内外問わずミュージカルを好み、かつ、手話をとりまく文化に興味をもつ私には、大変物足りなく感じる※1のです…もっと大きなスケールのチャレンジをしている意欲作なのに!そこをなんとか伝えたい!と思い、この文章を書き始めました。


 と、無駄に熱量高く語り始めましたが、この文章を読者は、国内外のミュージカルの知識は豊富なのは間違いないでしょうが、手話については普段縁がない人が大半でしょうから、まずは手話と手話劇の話から始めます。
 現在の日本における「手話」のイメージは「聴覚障害者が使っている、身振り手振りを使った、日本語の代替手段」あたりが多数派かなと思いますので、このキーワードをもとに、ひとつずつ解説していきます。
 まず、聴覚障害者と一言で言っても、生まれつきほとんど聞こえない人もいれば、すこし聞き取りにくい難聴の人や、言語習得後に病気や加齢で聞こえなくなった中途失聴者など、いろいろな人がいます。その結果、聞こえなさや聞こえなくなった時期によって、使う手話の雰囲気が変わってきます。ちなみに、手話劇で使われる手話は、生まれつき聞こえない人が使う手話が大半です。


 次に、手話は身振り手振りと違うのか?といった話をしたいと思います。これは、手話学習者ですら勘違いしがちですが、手話は手の動きだけではありません。確かに、身振り手振りをもとにした単語表現(食べる=右手人差指と中指を箸にみたてて口に運ぶ、雨が降る=両手でザーザー降っている様子をつくる、など)は沢山あります。しかし、楽しい時に楽しげな顔をしたり、怒ったときに頬をふくらますなどの表情の表現以外に、顔付き(パの口の形→完了形、眉毛を寄せる→疑問形、など)を使って動詞活用したり、頷きにより文節を区別するなど、身振り手振りを超えた文法的なルールも多数存在します。その為、今日では「手話は言語」※2であるという研究結果や認識が広がりつつあります。


 さて、最後に、手話は日本語の代替手段か?について。これは、中途失聴者を中心にそのように使っている聞こえない人もいるが、日本語とは別の自分達聞こえない人々の言語として使い、それをアイデンティティとしている人もいるという状況です。具体的には、家族が全員聞こえない(デフファミリー)環境で育った場合や、聾(ろう)学校に通い同級生同士で手話を使うなどして、手話が第一言語になったケースです。日本で暮らしていく際、音声日本語による意思疎通がとれないことは障害にはなりますが、手話ができる人同士で会話する分には困らないため、手話を使う人たちの間では強固なコミュニティが形成されています。そして、その聞こえない人達間の娯楽として、または、聞こえる人たちに手話やそれをとりまく現状を伝えるため、手話劇は古くから※3上演されてきました。 


 そんな訳で、手話劇は手話を使う人や学習者にとって身近な存在です。たとえば、NHKの手話ニュースや手話講座の聞こえない出演者の多くは、手話劇団で役者の顔を持っているケースが多いです。しかし、同時に、専業で手話の役者という場合は少なく、会社員として仕事をしながら、手話のニュースを読み、手話劇に出演している人が大半です。専業の手話俳優が少ない理由は、聞こえない人と手話学習者を中心とした客層の手話劇では、マーケットが小さく商業的に成り立ちにくい事があります。その為、日本の手話劇は、規模相応のレベルに甘んじている、と私は思っています。


 では、対象者を手話学習者ではない聞こえる人に広げた、手話俳優の道はないか?そう考えた時、まず問題になるのは、手話が必要な作品がどれだけあるか?そして、次に、聞こえない役が台本にあった時、必ずしも聞こえない人を配役する必要はない、という壁です。過去にテレビドラマでは、「星の金貨」は酒井法子、「愛していると言ってくれ」では豊川悦司が、聞こえない役を演じました。これは、手話を使う役は、よりリアルな手話を使うことより、知名度や聞こえる人から見た演技が優先される傾向からです。また「リアルな手話」の演技については、手話の手や指の動き以外の部分※4は見慣れない表情を伴うため、手話になじみのない聞こえる人には違和感につながる事も多く、避けられる傾向すらあります。そのような背景から、聴覚障害者団体である日本ろうあ連盟が数年前に制作したPR映画「ゆずり葉」ですら、聞こえない役に今井絵理子が起用されるのが現状です。聞こえない役者の知名度や経験が少ないから配役されない、という側面も確かにありますが、この状態では知名度や経験を増やしようがない、袋小路です。


 ここまで日本国内の手話と手話劇の現状について語ってきましたが、米国も同様の問題は抱えています。とはいえ、米国では障害者への差別を禁止する法律(ADA法)や、ショーエンターテイメントの文化や市場の違いなどから、日本より進んだ事例は多くあります。なかでも、デフウェストシアターのミュージカル「ビッグ・リバー」は、2003年にブロードウェイ入りし、トニー賞をリバイバル作品賞含む7部門で受賞、ツアーカンパニーは来日公演をおこなった為、日本の手話劇界隈でも大変よく知られた存在です。私は未見なのですが、過去の文献※5によると、当時から手話担当と声担当の二人一役の手法を使い、聞こえない人が字幕や手話通訳に頼らず観劇できていたそうです。字幕付上演は、読むことに追われてしまう欠点がある。手話通訳は、同時通訳となるため通訳者のレベルの影響が大きい。それらを乗り越えて、バリアフリーな観劇経験ができることは、大変衝撃的なことであったそうです。


 その話題になった「ビック・リバー」の次に、デフウェストシアターが12年ぶりにブロードウェイ入りさせた作品が、今回とりあげる「春のめざめ」です。私は、正直に言いますと、事前情報ではあまり期待していませんでした。「手話でミュージカル」への興味こそありましたが、世界一競争が過酷なブロードウェイで、秋の新作ラッシュのなか、手話という要素がなかった場合、どれほど魅力的な作品なのだろうか?との懐疑的な目で見ていました。


 というのも、「手話をとりいれた振り付け」、これには何度も失望してきた過去があるのです。確かに手や指の動きこそ手話の形にそってはいるけど、手話としては文法的に無理がある、下手したら単語として認識するのも難しいことも珍しくないのです。とはいえ、「春のめざめ」の手話表現については、そんな心配は杞憂でした。優れた翻訳ミュージカルの訳詞が、すっと日本語で自然と入ってくるように、特に違和感なく手話で演じることが伝わってきました。丁寧に英語からアメリカ手話(ASL)に翻訳されていることを感じました。冒頭、「Mama Who Bore Me」をベンドラが二人一役で鏡の中の自分に語りかける様に歌うシーンから、リプライズのガールズのダンスは大変美しかったです。


 なるほど、手話は見事にミュージカルに融合している。では、次は、この作品は手話で演じることに意味があるのか?という問題です。たとえ手話表現が良くとも内容が「お涙頂戴もの」だと興ざめです。そう思いながら鑑賞していると、ガールズのダンスから男子校のシーンに移り変わってすぐ、脳天をガツンと殴られるような衝撃的な演出で、ぐっと引き込まれる事になります。教師が生徒を順番に指名し朗読をさせる際、聞こえない役の生徒が指文字(アルファベットを一文字ずつ手の形で表現する手法)を使って朗読しようとするのに、教師は指文字を使わず発声するように迫るのです。その生徒は辛くも切り抜けるのですが、次にあてられたモリッツも同様に指文字を試みるも教師に否定され、到底聞き取れない発音で読み上げて、教師に罵倒されます。これは一見、ただの横暴な教師の振る舞いのように見えますが、聞こえない人やその背景を知る人からすると、かつておこなわれていた、そして今でも一部で続いている、手話の使用を否定する非科学的な口話重視の教育を連想させます。そこで、はたと気づくのです…今回の演出のテーマは、オリジナル版の「大人の無理解」だけでなく、「聞こえる大人の無理解」を重ねているのではないかと?そう気付くと、登場人物は、手話担当と声担当の二人一役以外にも、声をだしながら手話を使う役、声だけで手話を使わず字幕がでる役、など多様なコミュニケーション手法にも何か理由があるのでは?そう視点を少し掘り下げ…教師は台詞が字幕なのは手話を認めていないことを表しているのか…メルヒオールの手話は聞こえる人の手話だな…モリッツの手話表現はなかなか味のある手話だなぁ…等このミュージカルを手話劇としてとらえはじめたところで、「The Bitch Of Living」が始まり、モリッツの情熱的なソロシーンに、一瞬で心奪われるのです。


 モリッツの歌い出しは、全身で感情を爆発させる、手や指の動きだけでなく、ネイティブの使う手話的な表現を存分にいかし自分の思いを吐露する、手話の「声以外のありとあらゆる手段を使って伝える」ことのエモーショナルさが際立つシーンでした。手話になじみのない人へは音楽の力をかりつつ「手話はここまでの表現ができるのだ」と、聞こえない人向けには「これは聞こえる人のための、きれいごとの話ではない。私達のことを私達の手話で語る話だ」と、高らかに宣言する瞬間なわけです。冒頭のベンドラと少女達の踊りのような「きれいな手話」は誰もが期待する通りの手話劇であり、見た目の美しさ以上には意外性はありません。次に、男子校内での教師とのやりとりから「手話をとりまく抑圧」がテーマであることを示唆する事も、上手にレイヤーをかぶせていますが、テーマ自体は手話劇の伝統的なものであり目新しさはないのです。そんな理屈的に冷静な鑑賞をしているところに、一気に感情的に畳み込んでくるシーンをいれてくるわけです…上手な演出です。ミュージカル冒頭部分の定石※6ではあるのですが、山場となるシーンで、きれいに腑に落ちるよう説得力ある演出と演技ができているのは、とても素晴らしかったです。


 説得力がある、これが手話劇ではずっと懸案でした。聞こえる人は手話の美しい動きを観たい、聞こえない人は自分達のリアルな手話を使いたい、この両立がとても難しいのです。デフウェスト版「春のめざめ」が上手だったのは、劣等生であるモリッツが聞こえない役をやることで、本来の手話表現が聞こえる人から見ると珍妙な表情や間での動きであったとしても、「聞こえない変な人」ではなく「劣等生だから変わっている」と気にせずにすむ土台を用意したことです。そのことで、モリッツの役者はのびのびと自然な手話を使うことができました。これこそが私がこのミュージカルを革新的と考える所以です。聞こえる人も対象とした手話劇で、主人公格の聞こえない役を、本当に聞こえない役者が、違和感のない手話を使う…ただそれだけの事ですが、それがとても困難だったのです。


 また、ベンドラとモリッツは自分が聞こえず親は聞こえる、メルヒオールは自分が聞こえるが親は聞こえない(ので手話ができる設定)、としたことも良かったです。単純に古風で抑圧的な親ではなく、親子で使う言語が異なる難しさ※7は観る側に解釈の幅を大きく広げており、これがオリジナル演出クローズからたった6年で再演をかけることと、手話を使う理由として納得感があるものでした。


 そんな訳で思いつくまで書いてきたら最終ページになってしまったので、今後の課題について触れたいと思います。今回、聞こえない人がミュージカルを演じるに際して、音楽でタイミングをあわせられない為、上手側から合図をしたら飛び降りる、向かいの人が手をあげたら始める等、動作のタイミングをあらかじめ細かく決めていたと聞きます。これにより一体感のある手話をとりいれたダンスシーンが作れたと思いますが、同時にライブパフォーマンスとして躍動感が落ちていると感じました。例えるならテープ音源の講演をみているような違和感ですかね…。次回作では、この点を補える演出方法が開発されることを期待しています。


 余談ですが、現在米国地方公演中のディズニーミュージカル「ノートルダムの鐘」では、主人公のカジモド役にデフウェストシアターにも出演している聞こえない役者が出演しており、「春のめざめ」同様二人一役の手法をとっているとのこと。同作品は今年末から劇団四季でも公演予定ですが、日本でも近い演出がとられるのでしょうか?…あまり期待していませんが、ひょっとしたら??

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※1:例えるなら、日本版キンキーブーツの紹介記事に「三浦春馬が女装」ってタイトルに書いてあるのを見た時のような違和感です。
※2:手話が言語だから云々という話に興味がある人は、「手話言語学」「手話言語法」あたりのキーワードで調べてみると良いと思います。
※3:たぶん日本で一番有名な手話劇団、日本ろう者劇団の前身が昭和55年創設とのこと。
※4:専門用語では非手指動作=NMまたはNMMと呼ばれています。
※5:吉田真理子著「『ビッグ・リバー』(デフ・ウェスト・シアター・プロダクション)鑑賞 : その教育的意義」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004706621
※6:レ・ミゼラブルで、バルジャンが司教様から燭台をもらうシーンとかの、冒頭の説明パートの最後に登場人物にぐっと感情移入させる手法です。
※7:一般に、聞こえない子の親の9割は聞こえる、聞こえない親の子の9割は聞こえる、と言われています。

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