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散らかりを受け入れて 2022/05/18

日記

・昨日、身の周りが散らかっていると書いたけど、今は不思議とそこまで散らかっていないのではないかと思い始めている。ごちゃごちゃとした有象無象の山々が雄大な自然を形作っている状況に変わりはないのに。

・これはなぜかと考えてみると、昨日日記に「散らかっている」と書いたことで、その状況を自分で受容できるようになったからかもしれない。人間のコンプレックスも本人が拒絶している間だけコンプレックスとして機能して、受容すると「それも自分を構成する要素の1つだ」と認められるようになるが、それと同じで、自分の抱える不満を日記という媒体を通して外部に出力することで「散らかっている部屋や机」を認められるようになったのかもしれない。これはこれでいいんだと信じることで、直面している問題は無力化できる。ゴミ屋敷に住んでいる人も、どこかのタイミングで「この家はこれでいいんだ」と受容したのではないか。他人から見ればゴミ屋敷は解決すべき問題以外の何物でもないが、少なくとも家主からしたら、そもそもそれは問題化すらされていない事象で、解決という概念のないことなのだ。

・だからまぁ、当分片付けなくていいかな……。また汚ねぇ〜〜と思うその日まで、さらば掃除。


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・2度目の『シン・ウルトラマン』を観てきた。これはトイレを出た先に貼ってあってかっけぇっす……と震えた『シン・仮面ライダー』のポスター。

・2回観たら何か新しく気づくことがあったり、感想が変わったりするかなと思っていたけど、特に新しいことには気づかず、感想も変わらず面白かったねぇ〜〜〜〜〜〜良かったねぇ〜〜〜〜しか言えない。

・やっぱり、観てて楽しいんだよな。ものすごく派手なわけではないし、なんか奇妙な映画ではあるのだけど、とにかく楽しいし、ワクワクするから特撮映画としては大成功だろう。「センス・オブ・ワンダー」ってこういう気持ちなんだろうなと思う(意味をよく知らんけど)。シン・ウルトラマンを褒めそやしている奴はダメだとか、政治的に正しくないとか言われても、まぁ別にいいけど……と思える力がある作品なんだよな。

・あ、感想は変わらなかったと書いたけど、1回目で引っかかっていた部分がそこまで気にならなくなった気はした。

・お尻パン!とか巨大化からの煽りショットとか、匂いを嗅ぐところ(ここは元々そんなに気になってなかった)とか、1回目はわざとらしくそういう俗なシーンが入れ込まれているように感じたのに、今回は描写の一環として自然に入っているようにしか感じなかった。なんでだろう。特におしりパァン!に関しては、それいる!?と思っていたのが、まぁ気合入れるんだからやるよねくらいに落ち着いた。別にこれはネットのセクハラシーンが云々みたいな意見を見て、逆張りしたくなったわけではない。「浅見弘子」がどういう人間なのかを知った上で観たからかもしれない。彼女を知らない状態でいきなりお尻パァン!されると「役者が演出としてやらされている」ように感じてしまうけど、浅見弘子を人間(キャラクター)として認識した後だと、彼女の自主的な行動だと捉えられるからかな。


・帰り、道端にアニメのキャラクターが描かれた缶バッジか何かが落ちていて、まぁ落ちてるな〜くらいで一瞥して通り過ぎようとしたら、突然ススス〜とその絵柄が変化したので一瞬ビックリした。まぁ、よくある見る角度によって絵柄が変わるアレ(レンチキュラー)でだったのだけど、道端に現れるとかなり新鮮に驚いてしまう。

・それで、これは面白い!と引き返して動画を撮ったものの、さっき確認したら上手く撮れていなかった。残念だ……。

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