仲間が善人とは限らない
政治家の裏金問題におけるニュースを見ていると、いつも思う。「政治家はもしかすると、ワルいことをしなければ、のし上がれないのではないか」と。
収支報告書への記載漏れというのは、どうやら個人のミスだけではなく、その派閥による圧力のようなものが原因で起こるという見立てもあるらしい。
あまり詳しくなく恐縮なのだが、あれだけのお金を貰っている政治家が、それでもなおキックバックをしてしまうのには、そのような要因があるのだとか。
政治家がニュースに出ない日はほとんどない。それは良い意味でも悪い意味でも。
そしてそれを見て育ち、なお、政治家を志した者たちは、「自分はこうはなるまい」と胸に刻み、いざ日本を変えるために永田町の門を叩いたのではないのだろうか。
それにも関わらず、未だ多くの政治家がこのような汚職事件で揺れてしまう。彼らには、そのとき抱いた大志などは、もう存在しないのか。
それともその大志のために、必要悪として実行してきた汚職があるのだろうか。
政治とは団体戦であるように見える。
幼い頃に抱いた政治家へのイメージは、国がより良くなる方法を考える人。しかし、本当の姿は決める人たちだ。
なにかを決めるうえで、それが大きなものであるほどに、より多くの人間が決定のプロセスに関わるべきだ、という考えが民主主義社会には根付いていると思う。
そしてその考えに則って、政治家はなにかを決めるために党をつくり、派閥をつくり、仲間をつくってきた。
いわば、仲間の多さこそが、政治という場における力だ。
おそらく、数多くの汚職事件は、この「仲間づくり」の過程で生まれているように思う。
もちろん、個人の私利私欲にまみれた問題も散見される。しかしそれもまた、誰かしら「そそのかし」を実行した者がいるはずで、その人をも「仲間」にするために、行われた汚職もあるような気がするのだ。
仲間がいなければのし上がることのできない状況というのは辛い。なぜなら、その仲間が必ずしも同じ大志を抱いた善人であるとは限らないからだ。
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